ピアノ

  • ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 10-3編

    ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 10-3編

    7番に至るまでちょっと時間が空いてしまった。このシリーズは全部で32曲あるのでまだまだ遠い道のりである。 さて、7番も思い出深い曲だ。高校3年生の頃に試験で弾いた。私の暗譜が遅いので先生に「このままだと間に合わないよ」と怒られた記憶がある。今聴いてみると、規模が大きくてなかなか挑戦しがいのある曲だったなと思う。Op. 10の三曲の中では一番大規模で、唯一の4楽章形式である。検索すると結構いろいろなピアニストが弾いているように思うので、人気がある曲なのかもしれない。定番どころはともかく、題名がないベートーヴェンのソナタにも健闘してほしいものなので、7番には今後も頑張っていただきたい。 どのピアニストを聴くか悩んだのだが、そういえばまだホロヴィッツの演奏をここに出していないと思い、1959年版の録音を聴いてみた。 ピアニスト ウラディミール・ホロヴィッツ(1903-1989)キーウ生まれ。のちにアメリカで活躍。近現代の代表的ヴィルトゥオーゾピアニストではないでしょうか。 ベートーヴェン ピアノソナタ 第7番 Op. 10-3 1798年出版。ニ長調。 この曲の1楽章は出だしの勢いが大事な気がしていて、ホロヴィッツはそういう表現が上手そうと思ったのだが、やっぱり良かった。この曲は割とテンポで色々な表情をつけて弾くこともできると思うのだが、ホロヴィッツはかなりはやいテンポを一定に保ったまま1楽章を駆け抜ける。曲中のムードの変化はテンポ感より音色や強弱で表しているように感じる。そうしたテンポ感を保つことで、颯爽としてエキサイティングな曲調を保っているように思う。またこのレコーディングを聴いて、改めてベートーヴェンの時代のピアノの音域の幅というものを思った。この曲の最高音は現代のピアノではまだまだ余裕があるのだが、当時のピアノとしてはギリギリまで使っていたと思われる。以前、「どんな楽器でもその楽器の最高音は高い音に聞こえ、最低音は低い音に聞こえる」と言われて感銘を受けたことがあるのだが、このレコーディングだとちゃんと曲の最高音がピアノの音域ギリギリのすごく高い音を使っているように聞こえて切迫感がある。本当はそうでないのだが、そうやって聴かせて人を説得する技術ってすごい。 この曲の緩徐楽章は、ベートーヴェンの中でも最もヘビーなタイプの楽章だ。悲劇的でダークなのと同時に、即興性が強く、メロディーが美しいのも特徴だと思う。ホロヴィッツの演奏は強弱の幅、あたたかいメロディが登場した時のあえて微かに濁らせたペダリング、単旋律での緊張感などなど、すばらしい。私が高校3年生でこの曲をちょうど弾いていた時、同級生の友達が亡くなって、とてもショックで暗くて悲しい気持ちを経験した。この楽章はそこに寄り添ってくれたと思う。そういう気持ちを経験した人は自分一人ではないのだと思うだけで慰めになった。 3楽章は暗い2楽章の後にお花が咲くような可憐な楽章。私はどちらかというと可愛らしいイメージを持っていたのだが、ホロヴィッツの演奏は上品な味わいで素敵。最終楽章は1楽章にもやや通ずるが、ユーモラスかつドラマチック。出だしのフレーズが何度も登場してそのたびに展開していくという構成がベートーヴェンらしさを感じて好きです。 7番、久々に聴いたけどやっぱりいい曲だった。私は結構弾いたことないベートーヴェンソナタがあるのでまずはそちらを…と思うけど、またしばらくしたら弾きたいかも。…

  • 楽譜閑話

    楽譜閑話

    「楽譜通りに弾いて」と言われたことのない人はいないかもしれない。音楽を習っていたら絶対どこかで先生に言われる言葉だ。 時によってその意味はさまざまだ。音が違うのかもしれない。ペダリングの位置や指づかい、もしくはテンポや強弱記号、フレーズなど、楽譜に書かれている情報はとても多いので、それを読み取れていなかったのかもしれない。それか、楽譜に書いてあることをやろうとしていたけど違ったのかもしれない。 何であろうと、楽譜は演奏者の前で圧倒的な力を持つ。作曲家と演奏者をつなぐ、唯一の手がかりだからだ。我々は作曲家のバックグラウンドを深掘りして、「この時は〇〇に恋してたから恋愛の曲だ」とか「この曲には間違いなく〇〇の影響がある!」とやるのが大好きだが、突き詰めてみればそれは我々の推測であり、もっと言ってしまえば妄想でしかない。もちろんその中には有力な手がかりもあるが、最終的にはそれは一つの解釈に過ぎない、想像力の世界である。フィジカルな形に残っている唯一の手がかり、それが楽譜だ。 というわけでこの「楽譜絶対主義」的なものは演奏者にとって、特にここ何十年かのトレンドだと言っていいかもしれない。私も楽譜を読み込むことはとても大事だと思う。 だが、楽譜というものにそもそもどれくらい信頼性があるのか、ということはこの数年間で大きく認識が変わった。特に自分が楽譜を作る立場、楽譜編集という仕事を経験してからである。 自分で楽譜を作ってみてつくづく思ったことは、紙やデータに情報を託すということの脆弱性だ。いくら文章を書いてもすべての行間までをコントロールできないのと同じで、楽譜にすべてを託すことはできない。 「人はミスから逃れ得ない」ということも痛感した。何度も何度も見たはずの譜面、自分が沢山弾いた曲の譜面であっても間違いが起こるのは何故なんだろう。すごく小さなことが間違いのもとになる。例えばその時電話がかかってきたとか、蝿が飛んできたとか、そういう避けようのないことが原因になってしまうのだ。生きている限りは凡ミスから逃れられないのが人間だけど、それにしても難しいものだ。楽譜を作る時にはいろいろな人が関わる。今現在でもそうだから、当時はさらに色々な人が関わっていただろう。かつてのことは私が知っている基本的な部分だけに限っても、まず作曲家が自筆譜を書き、その後「写譜」というものが行われる。作曲家の楽譜が汚すぎて解読不可能だったり、各国で楽譜を発売するためにいくつも楽譜が必要だったりする場合に必要なものだ。そしてその後「彫版」というのが行われる。印刷のために、紙に書かれた楽譜を銅版に彫る作業だ。そして最終的に印刷が行われる。もちろん、作曲家の生きた時代や住んでいる場所、楽曲によって事情は変わってくるから一概には言えないが。 多くの人が関われば関わるほど、間違いが生まれやすくなるのは当然のことだ。作曲家本人だって自筆譜を書き間違えることがあるし、写譜や彫版で間違いが起こることもままある。意図的に色々なものを付け足したり消去したりということだって起きる。時間が経てば作曲家本人は死んでしまうけれど、曲は残って新たに楽譜が出版され続ける。そこで間違いがまた起きる。もしかしたら何百年も誰も気づかなかった間違いがひっそりとまだ楽譜に眠っている可能性もある。そうやって歴史の中で静かに起きた色々な小さな間違いや行き違いを思うと、果たして楽譜というのはどこまでが「正しい」のだろうという気持ちが拭いきれない。もちろん、大筋は合っていると思う。でも、例えばスラーの長さとか、ペダルの位置とか、一ミリずれただけで意味が変わってしまうような細かい部分については、どうだろう。 作曲家たちはもちろん、自分の楽譜をできる限り意図に沿ったかたちで出そうとしただろう。けれど、それは現代の「正しさ」とどこまで同じなのかということも気になる。そもそもの譜面の正確性はもちろん、当時の演奏習慣として即興や装飾を加えていたことを考えると、今とは違う楽譜の読み方、音楽との関わり方があったのではないかと思ってしまう。 作曲家はその作品において神に似て見える。彼らの意思がすべてを動かし、司ると解釈するのは一つの正しい受容の仕方なのだろう。 でも、クラシック音楽を演奏する人が、その神から正解をもらえることはない。彼らは皆もうこの世におらず、そして戻ってくることもない。それに、200年前の人々に響いた正解と今の正解は同じだろうか。 楽譜を作るということを経験してから、私は演奏者をこれまでより尊敬するようになった。舞台の上でその音楽に責任を持つ人は結局のところ、奏者なのである。弾く側だけだった時、自分は音楽を作り出すわけじゃないしいくらでも代用可能な存在だよなと思っていたが、その立場から離れたところで演奏者を見てみると、その時代を生きて、その時代の演奏ができるのは彼らしかいないのだ。だから、パフォーマーは自分をもっと誇ってほしいと思う。何百年も前に作られたものを、今でも価値あるものだとみなし、それを人と共有しようとする知性と想像力や、それを受け止めてもらえると聞き手を信頼することは、率直に尊いことだ。もちろん、作曲家の意思を尊重して自分はいなくなるような演奏を目指してもいい。でも、その人がその人であるゆえの演奏もいいものだ。例えそれが少し楽譜に書かれていることから外れても、楽譜は元々すべてを伝えられるものではないという前提で演奏を考えたっていいではないか。それに、我々が生きているのは今であって、200年前じゃない。自分という存在をもっと音楽の拠り所にしても良いのではないか。 時によって音楽は変わる。音符は変わらなくても、そこから何を読み取るのかは変わっていく。考えもしなかった方向に変わっていくものもあるのだろう。それはある意味では、とても美しいことなんじゃないだろうか。

  • ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 10-2編

    ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 10-2編

    きた!ついに6番。自分の高校受験で課題曲だった、懐かしい一曲である。今もよくコンクールの課題曲になったりするので、特に10代のピアノ弾きには馴染み深い一曲と言えるかもしれない。ベートーヴェンの交響曲は、たとえば5番と6番が同時に初演され、対称的な作品だが、ピアノソナタの5番と6番もペアのようにも聴けて面白い。二つともコンパクトな中に魅力が詰まった曲なので、両方弾いてみるのも良いだろう。先日亡くなったポリーニの演奏で聴いてみたい。 ピアニスト マウリツィオ・ポリーニ(1942-2024)。イタリア出身のピアニスト。ショパン他、現代曲のレパートリーも充実。 ベートーヴェン ピアノソナタ 第6番 Op. 10-2 1798年出版。ヘ長調。 ベートーヴェンは、言ってみれば悲劇も喜劇も描ける作曲家だが、この曲は彼の楽しくユーモアに満ちた面が聴けるように思う。例えば出だしのアウフタクトも呼びかけと答えみたいだ。深刻な話ではない。何気ない挨拶、ほとんど世間話のような応答が魅力的である。 ポリーニの演奏を久方ぶりに聴いた。そのクリーンでスマートな演奏を聴いて、つくづく今現在生きているピアニストは多かれ少なかれ皆この人の影響を受けていると思った。聴いてみるとなんとなく、演奏が予想通りだなという感がなくもないのだが、それはポリーニのせいではない。彼はオリジナルであり、その演奏に感銘を受けた我々が真似をしまくっているだけの話である。これはグレン・グールドのバッハにも似たようなことが言えると思う。 あっさり目のめっちゃ美味しい塩ラーメンみたいな演奏というともしかしたら顰蹙を買うかもしれないが、私のごく素直な感想はそれである。テンポが速めなのも影響しているのだろう。でもただ速いわけではなくて、ちゃんとコクがある。2楽章中間部の変ニ長調の音色の暖かさ、充実具合など心から美しいなと思う。 3楽章はまるで列車が走っているみたいな音楽だとずっと思っていた。1790年代に列車はまだなかったわけだが、疾走感があって8分音符がずっと刻まれている感じが列車を思い起こさせるのである。この3楽章、難しいよね。ポリーニのテンポは特急テンポで、なんの危なげもなく走っていくのでさすがである。しかも、見せつける感じが全然ないんだよね。そこがすごい。サラーっとすごいテンポで走っていくこの演奏に影響された世代、それが我々であるなと思った。 ちなみにシュナーベルの楽譜を見ながら聴いたがフェルマータがついた休符の長さなどを指定してくれており、またもや面白かったので、おすすめでございます。 中学生くらいで弾くとちょっと挑戦かもしれないが、形式やテクニックも含め「ベートーヴェンっぽさ」を学ぶのにとても勉強になる曲だなと改めて思う。だから課題曲によくなるんだね。課題曲って嫌な思い出ばっかりできちゃうかもしれないけど、大人になってみるとまた違う見方ができるように思う。大事に弾いてあげてください。

  • 06/19/2024

    06/19/2024

    久しぶりにソロの本番をさせてもらった。40分くらいの小さなコンサートだったが、ソロだけで演奏するのは大体2年ぶりくらいかもしれない。ヒエー。 ショパンのプレリュードはずっと弾いてみたい曲だったので、去年から取り組んだ。複数の友達が博士課程の時リサイタルで弾いているのをこれまでに聴いたことがあって、そのたびにいい曲だなと思っていた。いつか弾きたいと思いつつ、でも、自分の博士時代は他にも弾きたい曲がたくさんあって、取り組まなかった。修士の時にショパンのソナタ3番に取り組んだので、他の作曲家の作品も弾いておきたいと思う気持ちもあった。 それでもいつか弾く機会は来るとのんびり思っていたのだが、いざ日本で働き出してみたらそんな考えは甘かったことがすぐ分かった。ソロの新曲を練習する時間が全然ない。フルタイムで楽譜編集をやって、室内楽やレクチャーの本番を月一ペースで入れて、レッスンやら書き物やら、他の仕事も少しずつやると、セルフブラック企業状態になってしまい、時には72時間働けますか、というようなことになってしまった。一度ソロリサイタルをしたのだが、新しい大きな曲をプログラムに入れるのは無謀だと判断し、これまでにやった曲をメインにした。 そうやってやった仕事はどれも好きなことだったので、後悔はない。いろいろ学んだし、生きていくためにも必要なことだったし、そういう風に時間を過ごせて良かったなと思う。ただ、30代前半という体力と気力が両方揃っている時期に、ソロのレパートリーを増やせなかったことは残念だなあと思っていた。ところが2023年にアメリカに戻ってきたら、就労ビザが出るまでに何やかやと時間がかかる手続きがあり、時間ができた。もうここで練習をしなかったら、自分は一生ソロの曲を弾かないかもしれないと思った。もし自分が生まれ変わったとしてもピアノは弾かないかもしれないし、自分がピアノを弾けるという状態はここで機を逃したら二度とないなと考えてプレリュードを弾くことにした。 久々にソロの曲をやったら、譜読みも暗譜も以前より時間がかかった。その部分の脳を使ってなかったのだろう。そもそも難しい曲だし、時間をかけてゆっくりやった。ショパンの色々な要素が詰まっていて、色々なレコーディングも聞いたりして良い勉強になった。 レッスンを受けずに大きな曲を構築していくのは大変だった。学生時代に強制的に週一のレッスンがあったのはすごいことだったなと思う。25年くらい色々な先生から手取り足取り教えてもらったのだから一人で弾けるようになれよという感じだが、週に一回緊張して先生の前で弾くという経験はそれだけで貴重だったんだなと思う。 本番は久しぶりだったので緊張するかと思ったけど、思ったより心持ち軽く臨めた。何も起きなかったわけじゃなかったけど、まあ大きな曲を初回本番にのせる時はある程度覚悟して臨む他ないので、今後また頑張るほかあるまい。人前で話す英語が久々ですごく不安だったのだが、意外となんとかなった。良かった。 この本番と同時進行でビザの手続きが進んだので私が社会へ戻る日がそのうち訪れる。そうなったらまた忙しくなるんだろう。行く末はわからないが、これほど時間ができることはもう一生ない気がする。その時間に読んだこの曲はずっと大事にしていきたい。

  • ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 10-1編

    ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 10-1編

    ベートーヴェンのピアノソナタ Op. 2は3曲セットで出版され、Op. 7は単独で出版された。そして再び3曲セットのOp. 10である。自分のことを振り返ってみたら、Op. 2を全曲弾いたことはないが、Op. 10は全曲弾いたことがある!というのもOp. 10はコンクールの課題曲や入試で使われることが多く、ピアノを習う人は避けて通れない道なのかもしれない。ベートーヴェンのピアノソナタに最初に挑戦する時、《悲愴》が人気ではあるが、この5番や6番、また1番もぜひ候補に入れてみてほしい。題名ついてなくてもいい曲いっぱいありまっせ。 5番 Op. 10-1はハ短調。交響曲第5番《運命》やピアノソナタ第8番《悲愴》もハ短調で書かれており、さらにこの曲は出版されたベートーヴェンのピアノソナタ初の3楽章形式だ。もしかしたら、大規模な作品をいくつか書いたことである程度納得して、次の段階に進みたくなったのかもしれない。 この作品は旧ソビエトのピアニスト、マリヤ・ユーディナ(表記がいっぱいあるのですが、ここではこちらに統一します)で聴いてみよう。彼女はユニークな逸話をたくさん残した、伝説的なピアニストである。 ピアニスト マリヤ・ユーディナ(1899~1970)。ソビエトに生きたピアニスト。スターリンのお気に入りでもあった。 ベートーヴェン ピアノソナタ…

  • ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 7編

    ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 7編

    4番までやってきた。意欲的な大きな曲が続く。4番は規模的にはOp. 106《ハンマークラヴィーア》に続く大規模な作品だ。Op. 2に引き続きアルタリア社から出た初版の表紙も《グランド・ソナタ》と名乗っている。ベートーヴェンの弟子でもあるチェルニーはこの曲について《熱情》というタイトルは有名なかのOp. 57よりこのOp. 7にふさわしいと書いている。チェルニーを信じるなら、ベートーヴェンはそれほど熱を込めてこの曲を書いたらしい。 Op. 2の後発としてあまり間を空けず、1797年に出版された。Op. 2の3曲は基本的に1796年以前に作曲しているはずだけれど、それでも短期間に大きな曲をどんどん書いていて、ベートーヴェンが精力的に作曲しているのが伝わってくる。 誰の演奏で聴くか迷って、何人か聴いてみたのだが、フェインベルクの演奏が魔法のように素敵だったので彼のレコーディングを選んだ。 ピアニスト サムイル・フェインベルク(1890-1962)。ロシア系のピアニスト。作曲家としても活躍した。 ベートーヴェン ピアノソナタ 第4番 Op. 7…

  • ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 2-3編

    ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 2-3編

    最も出だしが難しいベートーヴェンのピアノソナタの一つ(私調べ)。3度って難しいのにそれが出だしに来ると心理的負担が結構ある。3番はハ長調。個人的にはベートーヴェンにはハ長調とハ短調がよく似合うと思う。ハ長調は地に足がついて素朴でパワフルなイメージがある。ちょっとピアノコンチェルトのような一面もある華やかなこのソナタをギレリスの演奏で聞いてみた。 ピアニスト エミール・ギレリス(1916-1985)。ウクライナ系のピアニストで、主にソビエトで活動した。ベートーヴェンのピアノソナタを27曲録音したところで亡くなってしまった。 ベートーヴェン ピアノソナタ 第1番 Op. 2-3 1796年出版。ハ長調。 ギレリスはどんな曲も上手いけど、ベートーヴェンはもちろんロシアものはやっぱり格別だし、規模が大きい曲を圧倒的な力量で聴かせてくれるピアニストだと思う。このベートーヴェンの3番も大きなスケール感で聴かせてくれて良い。シュナーベルとは全然違う良さがある。ちなみに2番を聴いて以来シュナーベルの楽譜にハマったのだが、彼は3番の出だしも指使いを事細かに書いてくれていた。 さて、ベートーヴェンはこのOp. 2の3曲のソナタをハイドンに捧げている。若きベートーヴェンはハイドンに作曲を習っており、記念すべき初出版のピアノソナタを彼に献呈した。しかし彼らの関係はそれほど良くなく、「ハイドンから学んだことは何もなかった」などとベートーヴェンは書いて残しているものの、実際に彼の作品を見るとハイドンの影響は明らかだ、というのが定説だ。ハイドンも小さなモチーフを展開していくのが巧みな作曲家であったし、また、この曲の3楽章でも採用されているスケルツォをソナタ形式に最初に取り込んだのはハイドンだ。ハイドンとベートーヴェンの音楽から共通して感じられるユーモアも重要だ。ベートーヴェンはシリアスなイメージが強い作曲家だが、音楽の中に人を驚かせて笑うような箇所もあるし、ふざけた会話のようなところも見逃せない。モーツァルトの「ふふっ」とさせるようなユーモアとも違う。この3番も人をびっくりさせるような転調があったり予測できない休符があったりするので面白い。 ギレリスの演奏は輝かしい。そして「わかってる」感がすごい。この曲の魅力の一つにコロコロとムードが変わっていくことが挙げられると思うのだが、ギレリスの引き出しの多さに圧倒される。チャーミングさ、勇壮さ、優しさ、ユーモア、そしてコンチェルトのソリストのような王様感。いろいろなピアニストがいるが、この「圧倒的!王!」的《北斗の拳》ラオウみたいな迫力を醸し出せる人は限られている。ギレリスは数少ない、そういうピアニストだ。あとはダイナミクスの幅も見事だ。昔、「ピアニストにはある一定の強弱の幅が出せることが必要だ。もし体が小さくて強い音が出ないなら弱音を突き詰めなくてはいけない。弱音を美しく出せるテクニックがないなら、武器になる強い音がなくてはならない。」と言われたことがあるけれど、ギレリスの音量幅はその元々の幅の広さとコントロールの効き方が凄まじい。2楽章のフォルテッシモの重さとピアノの対比など白眉だ。ベートーヴェンが仕掛けてくるいろいろな展開に対して「おお、こういうことか」と観衆を納得させるような演奏をする。万能だ。 それにしても、最初からこれだけの規模を備えた曲を書いていたのだから、ベートーヴェンが新しいピアノに対して貪欲だったのは良くわかる。Op. 2のソナタの時点で曲に対してピアノの性能が追いついていないように感じる。ギレリスの演奏など聴くとまるで高級車がアウトバーンを走っている如くで、さらにそう思うのかもしれない。だけど、当時のピアノで聴くとなんとも言えない味があって魅力的だから、「それもまたおかし」などと思ったりする。

  • ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 2-2編

    ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 2-2編

    今回は伝説級ピアニスト、アルトゥル・シュナーベルの録音でベートーヴェンのピアノソナタ 2番 Op. 2-2を聴こう。 ピアニスト アルトゥル・シュナーベル(1882-1951)。オーストリア出身のピアニスト。のちにアメリカに移住。 ベートーヴェン ピアノソナタ 第1番 Op. 2-2 1796年出版。イ長調。 なぜシュナーベルが伝説級かというと、この人は史上初めてベートーヴェンのピアノソナタ32曲全曲を録音した人なのである。しかも、今の時代のように後からつなぎ合わせたりとかはできない、それぞれ一発テイク録りの時代に32曲を録音したのである。これはもう偉業と呼ぶほかあるまい。よく、シュナーベルの録音にはミスが多いという人がいて、まあそれが気になるならば仕方ないが、一発録りでここまでのクオリティのものを残せるというのは本当にすごいことである。シュナーベル自身はこの録音が相当キツかったようで、こちらのエッセイによると「拷問」とか「奴隷のよう」「間違えるごとにやり直し。心身ともに耐えられない」「一人になったら道端で泣いた」というような(意訳)書かれた手紙が残っているそうだが、そんなことを書くのも当然と思えるようなプロジェクトである。 また、シュナーベルはレシェティツキというピアニストの弟子でもあるのだが、そのレシェティツキが習った先生はあのチェルニー(練習曲が有名)であり、さらにそのチェルニーが習った先生はベートーヴェンという作曲者直系の弟子でもある。ちなみにシュナーベルはベートーヴェンのピアノソナタ全曲の楽譜校訂(校訂というのは、数ある楽譜の版がある中からどれを採用するか決めたり、出版されてきた過程で色々生じた差異を検討していったり、アカデミックに楽譜を編集していく仕事)もやっている。偉大。 Op. 2-2も引き続き規模の大きなソナタである。1番もそうなのだが、出だしがアウフタクトになっていて、特にこのOp.…

  • ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 2-1編

    ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 2-1編

    昨今はYoutubeに伝説的なピアニストの演奏動画がたくさん落ちているので、その中から少しずつ素敵な演奏を拾い上げて聴いてみようと思う。まず1回目なので、ベートーヴェンのピアノソナタの1番 Op. 2-1。スヴャトスラフ・リヒテルの演奏する動画を選んだ。 ピアニスト スヴャトスラフ・リヒテル(1915-1997)ウクライナ系のピアニスト、主にロシアで活動。冷戦時はあまり西側諸国で演奏できなかったこともあって伝説的な存在だった。 ベートーヴェン ピアノソナタ 第1番 Op. 2-1 1796年出版。ヘ短調。 ベートーヴェンの記念すべき初出版ピアノソナタである。1770年生まれなので、25−26歳あたりで初めて曲を出版したと思うと、当時としてはベートーヴェンはそれなりに遅咲きである。今の人だとしても大学院を出る年頃で曲を出すようなものだから、13歳でオペラを作って上演していたような早熟の天才と比較すると少々親しみが湧くかもしれない。 ベートーヴェンはこの頃、作曲家というよりはどちらかといえばピアニストとして活動していた。それもバリバリ弾くタイプのヴィルトゥオーゾピアニストとして売り出していた。自分で弾くことを想定していたのだろう、だからベートーヴェンの初期作品はテクニック的に難しい作品が多い。Op. 1のピアノトリオも難しいし、Op. 2のピアノソナタもなめてかかってはいけない。とはいえ、この第1番は小学校高学年〜中学生くらいでもよく弾かれる、人気のあるレパートリーである。 ある程度の年齢になってからの作品ということもあるのか、この曲は作品番号こそ若けれどちゃんと修行を積んだ大人が書いた曲だということが聴いてみると分かるように思う。ヘ短調という調号が4つあって弾きづらい、もしかしたら楽譜の売れ行きが悪くなりかねない調をわざわざ選んでいるところがまずベートーヴェンらしい。そして最初のピアノソナタではあっても4楽章形式という大きい規模を選んで見事に成り立たせているところにも、若者の挑戦と同時に練度を感じる。そしてベートーヴェンの大きな特徴である「小さなモチーフを曲全体に張り巡らせる」という手法はこの頃から健在である。…

  • ピアノを習うと頭は良くなるのか問題

    ピアノを習うと頭は良くなるのか問題

    「ピアノを習うとIQが上がる」という話を聞いたことがある人は多かろう。「ピアノを習うと頭がよくなります」とホームページに謳っているお教室も多い。 ナントカ大学が論文を出しているらしい。ナントカ教授のメソッドがあるらしい。脳科学がどうとかこうとか…。有名な科学雑誌に載ったとかなんとか…。東大生にもピアノを習っていた人が多いらしい、いやそれは社会的要因が大きいらしいとか。 さて、本当のところはどうなんですかね? この手の質問をされることはたまにあるのだが、返答には結構困る。なぜなら、正直に言ってよくわからないからだ。ただ、ピアノを教える・もしくは音楽教材を売ったり広める・なんにせよ音楽業界で飯を食ってる側のマーケティングとしては答えは 「はい」 しかない。さらに今軽く検索したところ、これまでに音楽を習うこととIQの相関関係というのは私が思っていた以上に多く実験されて論文になっており、音楽を習うことによって少なくとも脳にある程度の影響があることは実証されている模様だ。例えばこのClassic FM の記事は良いまとめだと思う。この記事の中にある2014年のTED talkの動画も分かりやすい。音楽を演奏する時には視覚・聴覚・運動能力など脳の複数の部分をいっぺんに使っていて、演奏を行っているときは他の活動(スポーツや他アート)では見られない脳の働き方が観察されるということだ。そういう使い方をしているため、ミュージシャンはしばしば脳の「処理能力(?)」が高い、ということらしい。 他の活動と比較してどうか、というのはともかくとして「演奏するときにいろんな部分を使う」というのは感覚的によくわかる。演奏している時って色々なことを考えている。この音は出して、ペダリング薄くして、柔らかい感じの響きが欲しいな、次は左手の跳躍に気をつけて、と次から次へ思考がまわる。人と一緒に演奏している時だったらその人とコミュニケーションもとりつつ進むから、さらに違うことも考える。だから、「脳が花火をあげている」というのはきっとその通りなんだろう。 だが、それをもってして「ピアノを習うと頭が良くなる」とまとめるのは果たして正しいのかどうか、という話である。私は音楽と脳の関係については素人であるしまたその分野の音楽教育について専門的な勉強をしたことがないため、音楽を演奏する一介の人、また音楽家がたくさん周りにいる人としての体感として書くが、少なくとも、これまで誰かの頭の良さがピアノを習ったおかげだと感じたことはない。また自分を含め、周囲の音楽家が際立って「頭が良く」、それが楽器を習っていたことに起因するのか、と言われたらかなりの眉唾ものだ。 現実はもっと複雑なのである。そもそも「ピアノを習うと頭が良くなる」という文句の「頭がいい」という言葉はどういう意味なんだろう。想像するに、この「頭がいい」に含まれる願望はなんとなく「IQが高い」ということには限らない気がするからである。IQが高いことはたとえばコミュニケーションに長けているということとは違うし、社会をうまく生き抜くこととも違う。頭脳が優秀すぎるせいで生きることに難しさを抱える人がいるのは珍しくもないことだ。どちらかと言えば、「人生うまくいってほしい」という感じの気持ちがここには込められているのではないか。 それに身もふたもないことも言ってしまえば、音楽をやって上がったIQ程度でサバイブできるほど世の中は甘くないのではなかろうか。しかも「ピアノをやってIQが上がる」というレベルに達するには、それなりに音楽に労力を傾ける必要がある気がする。単に一日に10分ピアノの前に座る、ということではなく、それなりに時間をかけた反復練習と集中力を伴った演奏が重なった末に達する状態なのではなかろうか。つまり「ピアノを習えば頭が良くなる」というのは嘘ではないが、多少なりとも大味なまとめで、「ピアノを習って相応の努力をすれば、それに関連した脳の働きが活発になる」という方がより正確であろう。しかしピアノをそんなに練習していれば他のことをする時間は当然減るわけだから、そこにはデメリットも生じるわけである。 こんなことを書くと「じゃあピアノは習わなくていいや」と思われる方がいるかもしれないが、それは違う。私はピアノを習うことには大きなメリットがあると思う。楽器を弾くこと自体、とても尊いことだし。ただ、ピアノを習うことの一番のメリットを「頭が良くなる」という部分に置いてしまうと、期待した結果とは違うものが出てしまうかもしれないので、ある程度私の考えを書いておいてもいいかなと思った。 「頭が良くなる」ということに関連していうならば、ピアノを練習することによって得られる集中力、忍耐などはきっと勉強にも、どんなことにも役立つだろう。音楽家にもいろいろな人がいるけれど、みんな不思議な忍耐強さを持っている。それに、音楽は好奇心を呼び覚ましてくれる。歴史や社会への関心、音が響くという現象それ自体への関心、奏者や作曲家など人への関心。好奇心こそは学習のための第一歩ではないだろうか。最後に、ピアノを弾いても人生うまくはいかないが、人生うまくいかないときに傍にピアノがあるのは、悪くない。 というわけでみんなピアノを弾こう。頭も良くなるぞ。