食べ物

  • 好きな食べ物

    好きな食べ物

    好きな食べ物って意外と答えづらい質問ではないか。私は好きな食べ物を述べる時本当にその時好きな食べ物を答えるよりも、社会的に許容されやすい答えを優先してしまう。 例えば「キャビア」とか「トリュフ」と答えたら金がかかりそうだな〜と思われそうだし、「いちご」とか「マシュマロ」って答えたら、ある種のファクターがかかりそうだ。「なまこ」とか「くさや」と答えるのも何だか笑えるんだか笑えないんだか、という感じだ。ローカル性が高いもの、その地方であまり知られていないのもあまりよろしくない。「おっきりこみ」とか「すいとん」とか日本でならともかく、英語で話している時とかはかなり説明が必要な食べ物になってしまう。逆に日本でそれほど浸透していない料理のことを話すのも一緒だろう。この間「ドルマ」という料理を初めて食べてめちゃくちゃ美味しかったのだが、「好きな食べ物」としては挙げづらい(『シュクメルリ』『マリトッツォ』みたいに爆発的に流行る可能性もあるが)。 好きな食べ物による偏見、というところには論争もあろうが、好きな食べ物の話くらいで面倒な印象を植え付けたくないというのも素直な気持ちである。というわけで自分に嘘をつかず、社会的にも受け入れられた答えを長年探して見つけた、個人的に完璧な答えが「えび」である。 えびは良い。「えび」は桜エビから赤エビ、伊勢海老までの総称であるし、刺身で食べるところから複雑な料理の一部としてまで使われている。日常の食卓にカジュアルにのる食材でもあり、旅館のメインで出てくる食材でもある。カタカナでもひらがなでも漢字でも綴れる。ニュートラルかつ美味しい存在、それがえびである。それにえびの存在を知らない人ってそんなにいないんじゃないか。まあ、世界は広いのでなんとも言えないが、私が関わって好きな食べ物を話す人はえびの存在を知っている人が多そうだ。 しかし知っているからと言ってえびを皆が食べるわけでもない。例えば甲殻類アレルギーの人がいる。重度なものは命に関わるものだから、えびは食べられない。他には今調べてみたらユダヤ教ではえびを食べることが禁じられているらしい。なるほど、そう考えてみたらユダヤ系食品店ではえびを売っているところを見たことはなかったかもしれない。でもユダヤ教の友達はえびを食べていたので、考え方にもよるんだろう。ユダヤ教ではないが、以前友達とご飯に行った時「海洋生物の研究をしていて、えびや貝は食べない」と言われたこともあった。そういうふうに考えをベースにえびを食べない人もいるだろう。また、学生の頃ドイツに行った時、えびを食べている人はあまりいなかった気がする。特に内陸地は文化的にもえびに親しみはないのかもしれない。そういう人たちは私が「好きな食べ物はえびです」と言ったら「ああ、海方面から来たのね」と思うのだろうか。 えび一つとっても文化とは面白いものである。私は和食やイタリアンのえび料理もとても好きだが、タイ料理のえびは特に好きだ。タイ語でえびは「クン」というらしい。トムヤムクンはえびを煮て混ぜたものという意味だそうだ。トートマンクンという挽いたえびをパンに乗せて揚げた料理も美味しい。春雨サラダに入っていても美味しいし、概してタイ料理とえびの相性は大変良い気がする。タイ料理が好きな理由の一つである。 えびの良さを書いたところで苦手な食べ物についても書いておく。子供の頃は偏食で給食が憂鬱だった私だが、大人になった今は特に食べられないものはない。ゴーヤやブロッコリーは進んでは食べないが、出てきたらいただく。そういう食べ物が他にもあって、それは和菓子である。抹茶とか小豆味とか、あまり得意じゃない。でも最近、困ったことに日本だけならずアメリカでも抹茶味や小豆味が大人気なのである。タピオカティーとか飲みに行くとほぼ100%抹茶味がある。しかも日本なら和菓子が苦手と言えば終わることが、アメリカではそうはいかない。アメリカで友達に「私、日本の甘いもの大好きなんだよね!抹茶とか!」と言われた際に「私は抹茶が好きじゃない」と返すのはちょっと気まずい。なぜならそういう時彼らは言外に「日本の文化って素敵だよね」という文脈を混ぜて話してくれているからだ。優しさを無碍にするような気がして、ちょっと心が痛む。親しい友達なら、「まじか。本当に日本人?」と言って笑ってくれるのだが、初めてお茶に一緒に行く友達とかだと、もう濁してしまった方が楽かもしれない。でも嘘はつきたくない。その後さらに仲良くなって心を許した瞬間、「私抹茶嫌いなんだよね〜」と言ってしまい、「えっ、じゃああの時…!?」と思われるのも悲しいし。難しい。抹茶が好きになりたい。 好きな食べ物一つでも、その人の生きてきた人生や文化が表れるのは面白く、そしてちょっとこわいことだ。自分に正直になるところと社会通念に合わせるところのせめぎ合いである。まあでも、人と関わるってそういうものかもしれない。 おわり

  • お任せ

    お任せ

    今や日本はとても人気な旅行先だ。そうなると音楽家のみなさんが考えることは「日本に行ってコンサートしたい。そしてついでに観光もすればキャリアにもバケーションにもなる!」ということである。というわけで日本にいた頃に打診されて、日本国外から友達が来てコンサートをする、というのをやったことが何回かあるが、どれも相当大変だった。そもそもコンサートを自主企画するのはそれだけでかなり労力がかかることで、企画・お金・人集めとあらゆる心配事を操りつつ、練習して本番を迎えなくてはいけない。それが国外から、ともなるとさらに大変で、その人のプロフィールを日本語に翻訳したり、会場近くのホテルをとったり、リハ場所を余計に予約して単独で練習する時間をとったり、ツアーガイドまがいのことをしたり、そして通訳があったり、マネージャー的な手間がやたら増える。そして金銭的には、労働が増えた分の見返りはほぼない。 でも、今までのところやって後悔したことはない。信頼できるいい人たちと演奏会ができたからだと思う。そういうコンサートの一つが終わった時、同僚の一人が「いろいろありがとう。企画してくれたお礼にご飯奢るよ。」と言ってくれたので、ありがたく提案に乗ることにした。「何食べる?」と聞かれたので「なんでも!」と言ったら、「オマカセが食べてみたい。オマカセでいい?」という。オマカセを食べる?いや、店選びを任せてってこと?まあなんでもいいや、と思って、「いいよ」と言ったらわざわざ店をサーチして翌日のランチを予約してくれた。その辺りの店に入ってご飯を食べると思っていたからびっくりである。そして次の日、店に行ってみるとカウンターのお寿司屋さんでこれまたびっくりした。大丈夫か?でも、そんなに感謝してくれてたんだと思ったら嬉しい。 店に入るとメニューはなくて、お任せしかないらしい。なんということだ。ようやくその時、私は「オマカセってこれのことか!『オマカセ』という言葉が『フルコース』みたいな意味になっているんだ」と気づいた。確かに寿司屋や和食屋さんに「お任せ」というジャンルがあることは知っていたが、それが英語圏ではメニュー名として捉えられているとは知らなかった。「津波」や「過労死」に続く日本語がそのまま英語になったパターンだ。しかも今度はネガティブな意味ではなく、なかなか素敵な使い方ではないか。 ちなみに後から知ったがその店はメニューをお任せ一本化することで効率化し、悪くない値段で美味しいお寿司を提供することに定評のある店だった。「オマカセ」が流行っていることに気づいていて、インバウンドを最初から意識して成功したのかもしれない。今では東京の中心に何店舗か出している。なんでその情報を同僚が知っていたかは分からないが、今や観光客の方が日本のことをよく知っているのは珍しいことではないのだ。 情報通の同僚が見つけた店だけあってその日のお任せは大変美味しく、なんだか数ヶ月の企画の苦労が報われた気がした。ありがたい。数年前のことなのに今でも良い思い出として思い出せる、楽しかった食事だ。 そして私はアメリカに戻ってきて、「オマカセ」という言葉が当地でより進化していることに気づいた。大抵、「オマカセ」という言葉は「その店で一番高いメニュー」を指している。これは多分日本も一緒だ。「盛り合わせ」みたいな意味の時もあるらしい。「オマカセ」という言葉は一人歩きし、この間SNSで見たところ、今や「ミニカセ (minikase)」=「小規模なお任せ」という言葉すら生まれたらしい。さらに昨日インスタグラムを見ていたら、「bromakase」という言葉がニューヨークタイムズのコラムになっていた。結構面白い記事だ。アメリカで「オマカセ」がどんどん独自に進化して、かつてはステーキハウスに集っていた人々が今度は高額のお金を「bromakase」=「進化系オマカセ」に費やすようになっている、というようなところが大筋であるが、そこに対するカウンターもあって、そこではそれが「fauxmakase」=「偽オマカセ」とディスられている。お任せという言葉がこんなふうに一人歩きするなんて考えたこともなかった。でも考えてみたら日本でもそういう言葉あるし、当然の進化だよなと納得している。 ただこのことが書きたかっただけなので、この話にオチはない。オマカセが食べたいです。 おわり。