楽譜
-

ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 10-3編
7番に至るまでちょっと時間が空いてしまった。このシリーズは全部で32曲あるのでまだまだ遠い道のりである。 さて、7番も思い出深い曲だ。高校3年生の頃に試験で弾いた。私の暗譜が遅いので先生に「このままだと間に合わないよ」と怒られた記憶がある。今聴いてみると、規模が大きくてなかなか挑戦しがいのある曲だったなと思う。Op. 10の三曲の中では一番大規模で、唯一の4楽章形式である。検索すると結構いろいろなピアニストが弾いているように思うので、人気がある曲なのかもしれない。定番どころはともかく、題名がないベートーヴェンのソナタにも健闘してほしいものなので、7番には今後も頑張っていただきたい。 どのピアニストを聴くか悩んだのだが、そういえばまだホロヴィッツの演奏をここに出していないと思い、1959年版の録音を聴いてみた。 ピアニスト ウラディミール・ホロヴィッツ(1903-1989)キーウ生まれ。のちにアメリカで活躍。近現代の代表的ヴィルトゥオーゾピアニストではないでしょうか。 ベートーヴェン ピアノソナタ 第7番 Op. 10-3 1798年出版。ニ長調。 この曲の1楽章は出だしの勢いが大事な気がしていて、ホロヴィッツはそういう表現が上手そうと思ったのだが、やっぱり良かった。この曲は割とテンポで色々な表情をつけて弾くこともできると思うのだが、ホロヴィッツはかなりはやいテンポを一定に保ったまま1楽章を駆け抜ける。曲中のムードの変化はテンポ感より音色や強弱で表しているように感じる。そうしたテンポ感を保つことで、颯爽としてエキサイティングな曲調を保っているように思う。またこのレコーディングを聴いて、改めてベートーヴェンの時代のピアノの音域の幅というものを思った。この曲の最高音は現代のピアノではまだまだ余裕があるのだが、当時のピアノとしてはギリギリまで使っていたと思われる。以前、「どんな楽器でもその楽器の最高音は高い音に聞こえ、最低音は低い音に聞こえる」と言われて感銘を受けたことがあるのだが、このレコーディングだとちゃんと曲の最高音がピアノの音域ギリギリのすごく高い音を使っているように聞こえて切迫感がある。本当はそうでないのだが、そうやって聴かせて人を説得する技術ってすごい。 この曲の緩徐楽章は、ベートーヴェンの中でも最もヘビーなタイプの楽章だ。悲劇的でダークなのと同時に、即興性が強く、メロディーが美しいのも特徴だと思う。ホロヴィッツの演奏は強弱の幅、あたたかいメロディが登場した時のあえて微かに濁らせたペダリング、単旋律での緊張感などなど、すばらしい。私が高校3年生でこの曲をちょうど弾いていた時、同級生の友達が亡くなって、とてもショックで暗くて悲しい気持ちを経験した。この楽章はそこに寄り添ってくれたと思う。そういう気持ちを経験した人は自分一人ではないのだと思うだけで慰めになった。 3楽章は暗い2楽章の後にお花が咲くような可憐な楽章。私はどちらかというと可愛らしいイメージを持っていたのだが、ホロヴィッツの演奏は上品な味わいで素敵。最終楽章は1楽章にもやや通ずるが、ユーモラスかつドラマチック。出だしのフレーズが何度も登場してそのたびに展開していくという構成がベートーヴェンらしさを感じて好きです。 7番、久々に聴いたけどやっぱりいい曲だった。私は結構弾いたことないベートーヴェンソナタがあるのでまずはそちらを…と思うけど、またしばらくしたら弾きたいかも。…
-

楽譜閑話
「楽譜通りに弾いて」と言われたことのない人はいないかもしれない。音楽を習っていたら絶対どこかで先生に言われる言葉だ。 時によってその意味はさまざまだ。音が違うのかもしれない。ペダリングの位置や指づかい、もしくはテンポや強弱記号、フレーズなど、楽譜に書かれている情報はとても多いので、それを読み取れていなかったのかもしれない。それか、楽譜に書いてあることをやろうとしていたけど違ったのかもしれない。 何であろうと、楽譜は演奏者の前で圧倒的な力を持つ。作曲家と演奏者をつなぐ、唯一の手がかりだからだ。我々は作曲家のバックグラウンドを深掘りして、「この時は〇〇に恋してたから恋愛の曲だ」とか「この曲には間違いなく〇〇の影響がある!」とやるのが大好きだが、突き詰めてみればそれは我々の推測であり、もっと言ってしまえば妄想でしかない。もちろんその中には有力な手がかりもあるが、最終的にはそれは一つの解釈に過ぎない、想像力の世界である。フィジカルな形に残っている唯一の手がかり、それが楽譜だ。 というわけでこの「楽譜絶対主義」的なものは演奏者にとって、特にここ何十年かのトレンドだと言っていいかもしれない。私も楽譜を読み込むことはとても大事だと思う。 だが、楽譜というものにそもそもどれくらい信頼性があるのか、ということはこの数年間で大きく認識が変わった。特に自分が楽譜を作る立場、楽譜編集という仕事を経験してからである。 自分で楽譜を作ってみてつくづく思ったことは、紙やデータに情報を託すということの脆弱性だ。いくら文章を書いてもすべての行間までをコントロールできないのと同じで、楽譜にすべてを託すことはできない。 「人はミスから逃れ得ない」ということも痛感した。何度も何度も見たはずの譜面、自分が沢山弾いた曲の譜面であっても間違いが起こるのは何故なんだろう。すごく小さなことが間違いのもとになる。例えばその時電話がかかってきたとか、蝿が飛んできたとか、そういう避けようのないことが原因になってしまうのだ。生きている限りは凡ミスから逃れられないのが人間だけど、それにしても難しいものだ。楽譜を作る時にはいろいろな人が関わる。今現在でもそうだから、当時はさらに色々な人が関わっていただろう。かつてのことは私が知っている基本的な部分だけに限っても、まず作曲家が自筆譜を書き、その後「写譜」というものが行われる。作曲家の楽譜が汚すぎて解読不可能だったり、各国で楽譜を発売するためにいくつも楽譜が必要だったりする場合に必要なものだ。そしてその後「彫版」というのが行われる。印刷のために、紙に書かれた楽譜を銅版に彫る作業だ。そして最終的に印刷が行われる。もちろん、作曲家の生きた時代や住んでいる場所、楽曲によって事情は変わってくるから一概には言えないが。 多くの人が関われば関わるほど、間違いが生まれやすくなるのは当然のことだ。作曲家本人だって自筆譜を書き間違えることがあるし、写譜や彫版で間違いが起こることもままある。意図的に色々なものを付け足したり消去したりということだって起きる。時間が経てば作曲家本人は死んでしまうけれど、曲は残って新たに楽譜が出版され続ける。そこで間違いがまた起きる。もしかしたら何百年も誰も気づかなかった間違いがひっそりとまだ楽譜に眠っている可能性もある。そうやって歴史の中で静かに起きた色々な小さな間違いや行き違いを思うと、果たして楽譜というのはどこまでが「正しい」のだろうという気持ちが拭いきれない。もちろん、大筋は合っていると思う。でも、例えばスラーの長さとか、ペダルの位置とか、一ミリずれただけで意味が変わってしまうような細かい部分については、どうだろう。 作曲家たちはもちろん、自分の楽譜をできる限り意図に沿ったかたちで出そうとしただろう。けれど、それは現代の「正しさ」とどこまで同じなのかということも気になる。そもそもの譜面の正確性はもちろん、当時の演奏習慣として即興や装飾を加えていたことを考えると、今とは違う楽譜の読み方、音楽との関わり方があったのではないかと思ってしまう。 作曲家はその作品において神に似て見える。彼らの意思がすべてを動かし、司ると解釈するのは一つの正しい受容の仕方なのだろう。 でも、クラシック音楽を演奏する人が、その神から正解をもらえることはない。彼らは皆もうこの世におらず、そして戻ってくることもない。それに、200年前の人々に響いた正解と今の正解は同じだろうか。 楽譜を作るということを経験してから、私は演奏者をこれまでより尊敬するようになった。舞台の上でその音楽に責任を持つ人は結局のところ、奏者なのである。弾く側だけだった時、自分は音楽を作り出すわけじゃないしいくらでも代用可能な存在だよなと思っていたが、その立場から離れたところで演奏者を見てみると、その時代を生きて、その時代の演奏ができるのは彼らしかいないのだ。だから、パフォーマーは自分をもっと誇ってほしいと思う。何百年も前に作られたものを、今でも価値あるものだとみなし、それを人と共有しようとする知性と想像力や、それを受け止めてもらえると聞き手を信頼することは、率直に尊いことだ。もちろん、作曲家の意思を尊重して自分はいなくなるような演奏を目指してもいい。でも、その人がその人であるゆえの演奏もいいものだ。例えそれが少し楽譜に書かれていることから外れても、楽譜は元々すべてを伝えられるものではないという前提で演奏を考えたっていいではないか。それに、我々が生きているのは今であって、200年前じゃない。自分という存在をもっと音楽の拠り所にしても良いのではないか。 時によって音楽は変わる。音符は変わらなくても、そこから何を読み取るのかは変わっていく。考えもしなかった方向に変わっていくものもあるのだろう。それはある意味では、とても美しいことなんじゃないだろうか。
-

ベートーヴェンのピアノソナタを聴こう!Op. 10-2編
きた!ついに6番。自分の高校受験で課題曲だった、懐かしい一曲である。今もよくコンクールの課題曲になったりするので、特に10代のピアノ弾きには馴染み深い一曲と言えるかもしれない。ベートーヴェンの交響曲は、たとえば5番と6番が同時に初演され、対称的な作品だが、ピアノソナタの5番と6番もペアのようにも聴けて面白い。二つともコンパクトな中に魅力が詰まった曲なので、両方弾いてみるのも良いだろう。先日亡くなったポリーニの演奏で聴いてみたい。 ピアニスト マウリツィオ・ポリーニ(1942-2024)。イタリア出身のピアニスト。ショパン他、現代曲のレパートリーも充実。 ベートーヴェン ピアノソナタ 第6番 Op. 10-2 1798年出版。ヘ長調。 ベートーヴェンは、言ってみれば悲劇も喜劇も描ける作曲家だが、この曲は彼の楽しくユーモアに満ちた面が聴けるように思う。例えば出だしのアウフタクトも呼びかけと答えみたいだ。深刻な話ではない。何気ない挨拶、ほとんど世間話のような応答が魅力的である。 ポリーニの演奏を久方ぶりに聴いた。そのクリーンでスマートな演奏を聴いて、つくづく今現在生きているピアニストは多かれ少なかれ皆この人の影響を受けていると思った。聴いてみるとなんとなく、演奏が予想通りだなという感がなくもないのだが、それはポリーニのせいではない。彼はオリジナルであり、その演奏に感銘を受けた我々が真似をしまくっているだけの話である。これはグレン・グールドのバッハにも似たようなことが言えると思う。 あっさり目のめっちゃ美味しい塩ラーメンみたいな演奏というともしかしたら顰蹙を買うかもしれないが、私のごく素直な感想はそれである。テンポが速めなのも影響しているのだろう。でもただ速いわけではなくて、ちゃんとコクがある。2楽章中間部の変ニ長調の音色の暖かさ、充実具合など心から美しいなと思う。 3楽章はまるで列車が走っているみたいな音楽だとずっと思っていた。1790年代に列車はまだなかったわけだが、疾走感があって8分音符がずっと刻まれている感じが列車を思い起こさせるのである。この3楽章、難しいよね。ポリーニのテンポは特急テンポで、なんの危なげもなく走っていくのでさすがである。しかも、見せつける感じが全然ないんだよね。そこがすごい。サラーっとすごいテンポで走っていくこの演奏に影響された世代、それが我々であるなと思った。 ちなみにシュナーベルの楽譜を見ながら聴いたがフェルマータがついた休符の長さなどを指定してくれており、またもや面白かったので、おすすめでございます。 中学生くらいで弾くとちょっと挑戦かもしれないが、形式やテクニックも含め「ベートーヴェンっぽさ」を学ぶのにとても勉強になる曲だなと改めて思う。だから課題曲によくなるんだね。課題曲って嫌な思い出ばっかりできちゃうかもしれないけど、大人になってみるとまた違う見方ができるように思う。大事に弾いてあげてください。
-

楽譜編集者ってなんですか?
2020年から2023年の間に楽譜編集者として働いていました、というと必ず「何をやってたんですか?」と聞かれる。安心してください。私もやってみるまで知りませんでした。ただ、今はフリーランスになったので、前職の職務内容が多少想像できた方が仕事の幅が広がるかなと思い、ここに簡単にまとめてみることにする。微に入り細に入り、というわけではなく、本当にざっくりですが、もしご興味あれば。 なんでその仕事を始めたのか これは簡単である。受かったからだ。当時私は就活をしており、音楽関係の仕事先を探していた。教育機関を考える一方で、私はもし音楽をしていなかったら出版社で働きたかったと思うくらいには出版社に憧れがあり、その上ちょうど良いタイミングで求人が出ていたので思い切って応募した。かなり悩んだので、締め切り日の消印で郵送したのを覚えている。とはいえ、職務内容は想像もつかなかったので、自分の経歴で受かることはあまり期待していなかった。面接でも「楽譜編集者って何をするんですか?」と聞いたくらいだ。だから受かった時にはとてもびっくりした。驚いたそのままの勢いで引越し、仕事を始めた。人生はご縁。 何をやってたか ・担当作に関わる企画、著者とのやりとり、権利関係のこと、デザインに関わること、宣伝関係のこと ・楽譜、文章、翻訳(英日)の校正、校訂 ・お客様対応 大きくまとめるとこんな感じである。それぞれの仕事は作品によってかなり違うのだが、大体はこんな感じ。私はほぼピアノ楽譜をやらせてもらっていた。 担当作に関わる企画の部分は、多分「編集者」という仕事を考えるときにまず思い浮かぶ部分だと思う。「この本を出したいです」と言って企画会議に出したり、お金の計算をしたり、解説や運指をしてくれる著者とやりとりしたり、著作権関係のことを調べて許諾をとったり、楽譜の中や表紙のデザインを考えたり決めたり、その本に関連するコンサートやレクチャーで即売をしたり、実務的なことだ。自分に足りない部分だったので、ここを鍛えられたのはとても良かった。 2番目は楽譜の内容に関わること。楽譜の校正というのは、新しく出る楽譜の音やリズム、表示記号、指番号など、楽譜全体が意図通りに表記されているか確認する作業。文章の校正は前書きや解説部分などで、書籍校正に比べると当然少なかった。翻訳の校正は原文と日本語訳を見比べながら意図通りに訳されているか、日本語として意味が通るか、などを確認する作業。私の場合は英日の校正がほとんどだった。校訂というのはもう少しクリエイティブな部分が加わる作業で、楽譜を数ある版のどれを基にするか決めたり、楽譜にいくつかパターンがある中でどれを採用するか決めたりする(実際にはもっと多岐にわたるけど、大きくまとめるとこんな感じ!)。 最後のお客様対応が一番簡単に想像できると思う。電話対応したり、質問に答えたり、必要なら楽譜の修正をしたりする。 楽譜の編集者というと、新しい曲の企画なんかを見て「おお、なんといい曲なんだ。出版しよう」という新作出版の仕事も想像されると思うし、実際そういう事もあるのだが、私の場合はほぼクラシックのピアノ楽譜に担当が偏っていたため、全くの新曲を担当することは多くなかった。でもそれとは別に隠れた名曲を掘り出す、みたいな作業は時々あって、それは大好きだった。あとは出版された曲を演奏してYoutubeに載せる、みたいなことも時々あって楽しかった。 まとめ かなりあっさりとしたまとめだが、こんなことをやっていました。もっと詳しく知りたいことがあれば、お尋ねください。ちなみにフライヤー制作が趣味になったのも楽譜編集をやったからです。
