日常

  • サイト作りにハマる

    サイト作りにハマる

    勇気を出して昨日このサイトを公開したので、ちびちびと作ってきたサイトを見てくださった方がいると思うと大変嬉しい。ありがとうございます。 サイトを作り替えなくてはいけないと思っていた。アメリカでやりたいなら、当然ながら英語でのコンテンツが必要になる。今までのサイトは日本語しかなかったし、URLが「.jp」だったので、「.com」にしたかった(幸い珍しい名前なのですぐにとれた)。コンテンツも充実させたかった。いろいろなところにバラバラと散らばったフライヤーや音源を1箇所にまとめておきたかったし、そろそろ自分の活動記録をちゃんと作るべきだと思った。そうしないと、後から全部自分で忘れてしまいそうだ。さらに日本では主に組織の中にいたが今は違うから、一つ一つ、やるべきことはやらなくてはいけない。 レッスンについてもちゃんと情報を出したかった。必要なことが分からないのはよろしくない。色々なお教室のサイトを見て、クリアな情報発信を目指して勉強させてもらいました(感謝!)。今後も必要なことは都度改善していく。 サイト構築には無知なので、最初は腰が重かった。ブログかSNSオンリーにしちゃおうかな…とも思ったが、いやいや、仕事したいならちゃんとサイトを作るべきと考え直した。情報が1箇所にまとまっているという意味で、ブログやSNSとサイトはやはり違う。WixとWordpressを天秤にかけていたのだが、それだけで大体1ヶ月くらい悩んでいたと思う。最終的にWordpressにしたのにこれという理由はないのだが、以前少々扱ったことがあり少しはシステムに馴染みやすいように感じて選んだ。米国企業でカスタマーサービスなどもどんな感じか予想がつく、というのもいいと思った(予想通りだった。かなりちゃんとしてたのでこれから使おうと思っている方はおすすめします)。 さて、私の夢のホームページは日本語と英語の両言語が網羅されており、かつ、その人の顔・大体の人格・ビジネス内容がはっきりと分かりやすく把握できることである。これは最初から難航した。Wordpressにはバイリンガル機能があるのだが、私のプランだと使えないのだ。アップグレードのためにはずいぶんな額を支払う必要がある。諦めて、とりあえず英語と日本語を併記して作ってみることにした。サイト作りは始めてみると意外と楽しい。最初にドメインを取るまでが一番難しかったが、デザインを決めていく段階になると配置選び、カラー選び、フォント選び、写真選びといろいろ楽しいことだらけだ。 サイトを作るのはちょっと家の設計にも似ていると思う。YouTubeのルームツアーを見ていると、「回遊動線」とか「家事動線」という言葉がしょっちゅう出てくる。いかにストレスなくキッチンや洗面所を配置できるか、短い距離で便利な動線を作れるかということらしい。確かにWebサイトでも、使いやすいサイトは動線が良い。戻るボタンを連続押ししたり、肝心なところでどこを押せば良いか分からないということがない。なるほど、サイトをデザインしているプロはこういうことにこだわっている訳か。無限の可能性がある…!素人には気づかないことが沢山あるのだろうが、とりあえず回遊動線という言葉を思い出しつつやってみることにした。まあ、Wordpressという巨大なツールを使い切れているとは到底言えないが、それは仕方ない。必要なページは思ったより多かった。どこに何を配置していくのか設計していくのは難しかったけれど楽しい。意外と向いているのかもしれないなどと調子づいたりもした。 そうこうしているうちに文章量も増え、英語と日本語が併記されているのがとても見にくく感じるようになった。見づらいサイトはダメだ。英語は英語、日本語は日本語で分けるのが筋だろう。そう考えて、思い切って英語と日本語で同内容のサイトを作って棲み分けることにした。コピペにコピペを重ねて言語を分けるとやっと少しスッキリし、面倒だがやって良かったと思った。 ウェブ用の文章の文体も難しい。かたい文章はダメだが、砕けすぎているのもダメだ。英日両方あるので本当は全ての文章をもっとチェックしてから出したかったのだが、終わらないままに公開してしまった。いろいろ見つかるんだろうなと思うが、ウェブは修正が簡単なのでそれは良いことだ。 もう一つ大事だと思ったのは写真だ。良い写真は100を語ってくれる。文章だけだと分かりにくいことも、写真があればぐっと説得力が上がる。機会があるごとに写真を撮るのは大事だとつくづく思った。フリー画像素材を上手に使うのもいいのかもしれない。 というわけでサイトはなんとか出来あがった。とても楽しかった。正直言ってもっとやりたいが、私はこのサイト作りたい欲をこれからどこに向ければいいのだろう。このサイトをちょこちょこいじればいいのか。 まあ、今の素人のぬか喜びあたりがちょうどいいのかもしれない。

  • アクロイド殺しと黒井戸殺し

    アクロイド殺しと黒井戸殺し

    私はアガサ・クリスティの小説が大好きで、ポワロ、ミス・マープル、トミーとタペンス、ハーレクイン、パーカー・パイン(一番好き!)、また探偵が登場しない作品やオカルト系短編に至るまでほぼ全作読んだんじゃないかと自負しているのだが、《アクロイド殺し》は最も有名な作品の一つであるにもかかわらず未読だった。 理由は簡単で、読む前にネタバレを見てしまったからである。忘れられないネタバレではあるが、それは10代の頃だったし、いろいろなミステリーを通ってきた今読んだら、ネタバレを知っていてもむしろ面白く読めるんじゃないかと思い、初めて読んでみた。 面白かった。日本語訳も良かった!細かいところまでこだわって訳されているのが伝わってきた。クリスティの小説を読むと、トリックや話の進め方の見事さはもちろん、登場人物が皆生き生きとしていることにつくづく感心させられる。だいたいどの小説にも問題を抱えた若いカップルとお節介な中年女性、いかつい退役軍人や胡散臭いおしゃべりが出てくるのだが、《アクロイド殺し》も例外ではなく、「ああこれこれ、これがアガサ・クリスティだよね〜」という実家のような懐かしさ(?)で楽しく読破できた。みんなが秘密を抱えているというのもいつものパターンなのだが、これが皆自然なところも良い。物語が展開するためにキャラクターが動かされているというわけではなく、「確かにありそう」と想像できるのが素晴らしいのだ。中高生の頃にハマってクリスティ作品を読みまくっていた頃はトリックや犯人にばかり気を取られていたが、大人になって読んでみるとその人間観察眼に舌を巻いた。ミステリーだと容疑者たちの抱えているそれぞれの事情は怪しげな秘密に思えるが、現実世界だって誰もが問題を抱えていて、事件に巻き込まれていないから「秘密」になっていないだけなのである。こういうふうに考えられるようになったのは間違いなく自分が歳をとったからなので、また別の作品も再読してみたら全然違う感想を持つのかもしれない。読んでみたい。 2018年に三谷幸喜がこの作品をドラマ化していたことは知っていたが、例によって原作未読だったために視聴していなかった。2015年に出た《特急東洋》=オリエント急行は後になってから観たのだが、ちょうどケネス・ブラナーとジョニー・デップが出ていた2017年の映画版も視聴したところだったので、オリエント急行はどうやって日本に置き換えるんだろうという興味ばかりが先立ってしまって、話に集中しきれなかった。だが本来三谷幸喜は人間を描くことにかけてはクリスティに負けていない人だ。アクロイドをどう料理したのかということが気になり、観てみた。 いやーこちらも面白かった。日本版になっていることは違和感を覚えずに観れた。キャストのまとまりが良くて、一堂に介すシーンがしっくりくる。また、背景音楽が少なくて演者に場を任せているところが多いことも良かった。ポワロの野村萬斎さんは一人だけ異世界から来たみたいだが、それがポワロっぽくてとても良かった。大泉洋さんの演技は実はあまり拝見したことがなかったのだが、良い俳優さんですね…!細かい演技が素晴らしかった。また私はAKBでは秋元才加さんが好きだったので、ご活躍の様子が観れてとても嬉しかった。 どうやって映像化するんだろうと不思議だったのだが、トリックや話の進め方はまさに原作通り。こんなに原作通りに進んだ映像作品も珍しいんじゃないかと思った。少しだけ改変があったが、それもとても良くてちょっとした驚きを持って観た。王道の探偵と犯人が対峙するシーンも素晴らしく、ラストのカットもとても良かった。 というわけで大満足でした。《アクロイド殺し》に対するマイナスイメージは払拭されました。それにしても読後/視聴後に感想を検索して、ネタバレを知った状態でこの作品を読んだ人の多さにびっくりした。一人じゃなかった…!何が大変って、この作品のネタバレって一行で終わっちゃうんだよね。めっちゃ簡単なの、ネタバレが。それでいて衝撃的。いやーすごい作品だわ。

  • 無駄を生きる

    無駄を生きる

    就労ビザがやっと取れそうな気配の今になって思うが、この一年はつくづく無駄だった。文句を言っているわけではない。客観的な事実だ。 誰が悪いわけでもない。できることはやった。強いて言うなら、アメリカ移民局の遅々とした対応で、それにはもううんざりだが、しかし私の知っている限りはビザ申請のプロセスはできる限りの速さで進めてもらったし、夫も一生懸命頑張ってくれた。非常に感謝している。 ただ、仕事人としての自分を考えてみると、この一年間はコンサートもレッスンもできなかったし、練習も張り合いがなくて緊張感も集中力もなかった。自分のせいと言われればそれまでだが、音楽家は本番に追われて練習する生き物なので、環境要因も大きかったのは間違いない。ほとんど生産性のない一年を過ごした。日本に帰国した時も味わったアイデンティティクライシスというものをまたもや味わった。確かにこれはしんどい。仕事がなければ人とも会わないし、何も作り出していない自分というのが辛い。しかし周りが元気にみんな働いて、社会と繋がりを持っているのはいいなと思うし、そのお金でアフタヌーンティーに行ったりコスメを買ったりしているのもたいそう羨ましい。というか、肩身が狭い。私もやりたい。ちょっと高い服やデパ地下のお菓子を軽率に買うのに「自分のお金だしいいや」と思えたあの頃の心理的ハードルがない状態に戻りたい。 朝起きて何日かにいっぺん雑な掃除や洗濯をし、ピアノをチャラチャラ弾いて、スーパーまで歩いて行って、ご飯を適当に作っているだけの日々を送るうちに「社会から取り残される」という言葉の意味がわかった。猫が来てからはは多少改善されたが、だからといって一年間の私のキャリアの穴を猫は埋めてはくれない。失われた時間だ。 私は最近まで、その時間を「しかし有意義なこともあった」「意味のある一年だった」と思うことで自分を慰めていた。多少違和感はあったが、実際夫と一緒に暮らすのは楽しいし、久々のアメリカに慣れるまではそれなりに労力を費やしたから部分的には真実である。そうやって考えることはある程度自分を助けてもくれた。 でもよく考えるとやっぱりその考え方は納得いかない。ある一部分で意味がある一年だったとしても、私はやっぱり仕事がしたいし、早く取り掛かりたいし、そういう意味では死んだ一年だった。そしてそう考えるとやっぱり暗い気分に陥っていたのだが、この間久々に髭男爵のルイ53世のインタビューをいくつか読んで、かなり救われた。この人のインタビューは以前も読んだことがあり、その時もいいなあと思ったのだが、今回はまさに必要なタイミングで出会ったと思う。学生時代に6年間引きこもっていたというこの人はどのインタビューでも、「引きこもりの時間は無駄だった」と言う。でもその受容の仕方が、深く考えられていてとても好きだ。それは、人生の中には無駄な時間があること、何の役にも立たない時間をただ受け止めるということだ。それを「その時間があったから今の自分がある」とか「あの時間こそが今役に立っている」という美談にする必要はない。ただ、ゼロである自分を認める。 それはシンプルで、難しいことだ。もしかしたら美談にした方が簡単かもしれない。でもそれはしない。綺麗な文章にもならないし、勇気が出る話にもならない。ただ、そうやって過ごした自分を受け止めて許すだけだ。 私にとってこれはかなり勇気がいることだった。でも、よく考えてからそういう風に少し考えられるようになると、非常に救われた気がした。 これから自分が未来から振り返った時にこの時間やこういう風に思った自分をどう思うかはわからない。もしかして美談として振り返るのかもしれないし、やっぱり無駄だったと思うのかもしれない。でも、どっちでもいいやと思う。私はそういう一年を過ごし、今ここにいる。それをただ受け止めるための勇気を出そうとしている。それでいい。

  • さんぽ

    さんぽ

    アメリカと日本はいろいろ違うところがあるが、アメリカは州によって子供が一人で外を歩いたり留守番したりしてはいけないという法律があるところは一つ大きく違うと思う。そういう法律がなくても、学校にはみんなバスで行っている。子供達だけで道を歩くのは危ないので仕方がない。私は自分が子供の頃、毎日まあまあな距離を歩いて学校まで通っていたので、アメリカの子どもたちはそれを経験しないのかと思うとなんだか不思議な気分だ。 散歩とはいいものである。散歩好きな作曲家もたくさんいた。ベートーヴェンの散歩好きはよく知られていて、絵画にもなっている。 良い絵だよね〜。好きだ。ちなみに宮澤賢治もこの絵が好きだったようで、写真を撮るときに真似たものが残っている。有名なお話ですな。 散歩が好きな作曲家や小説家は多いが、それもそうかと思う。一人で作品を生み出すというのは孤独な作業で集中力が途切れたら続けられないし、ずっと机に向かい合っていると体が鈍る。散歩のいいところは思い立ったらすぐに一人で始められるところと、一銭もかからないところだ。健康にも良い。気分転換にもなる。悪いところが一つもない、素晴らしい趣味だ。 コロナ禍の間、偉人たちにならって、というわけでもないがどこにも行けないので私もひたすら歩いた。当時は江古田に住んでいたのだが、そこから池袋や中野方面はもちろんのこと、池尻大橋や神楽坂など、気が向くままに東京を歩いた。いつもは電車で通り過ぎていく道をひたすら歩いていくことのなんと正直で確実なことだろうか。歩くことは嘘をつけないのが良い。足を動かせば進む。そうでなければとどまる。身体が脳みそと繋がっていることを実感する。 東京は夏になると蒸し暑いけど、それを除けば歩くのが本当に楽しい街だ。住宅街と繁華街が交互に現れるし、アイディアに満ちた楽しい店がそこかしこにあり、駅から駅へ少し移動するだけで街の雰囲気がガラッと変わる。東京は街の景観を考えて作られていない、見た目が美しくない、というポストを以前見たことがあるけれど、異を唱えたい。東京は面白いし、美しい街だ。 ミシガン、というかアメリカは全体的に、人口が集中するところ以外は歩行者のための街づくりはされていない。そもそも歩道がないところも多い。けれど公園が多く、そういうところに行けばかなりきちんと整備されている。歩きたければ車で公園まで行って歩く、という感じだから、都会以外では東京みたいに無為に歩くことができないのが難点だ。ただかなりちゃんと手入れされていて野生動物なんかも住んでいることが多いから、自然を味わうにはとても良い。 どこで散歩してもそれぞれ良さがあって楽しいのだけど、自分が今いない場所に突然散歩に行きたくなるのはちょっと寂しい。日本でぶらぶら歩きたいけど、そうするとアメリカが恋しくなるんだな。

  • 異国で歳をとる

    異国で歳をとる

    アメリカ生活の7年目を終えようとしている。23歳から29歳までをアメリカで過ごし、33歳で戻ってきたアメリカでの最初の1年がもうすぐすぎる。34年の人生の中で7年というのは長いといえば長いし、短いといえば短いだろう。「異国」とタイトルをつけたが自分にとってアメリカが異国と思う場所なのか、ということも少しずつ変わってきている気がする。夫が最近良く「海外に遊びに行きたい」と言っているが、日本から見ればアメリカは海外じゃないか。しかしずっと住んでいると最初は異国だった地が家になってきて、安心もするが刺激もない土地になってきているという気持ちはわかる気がする。なにしろ、私もアメリカの空港に降り立つと安心するようになったのだ。これは不思議な気持ちである。留学したての頃は日本に帰ると、大きな荷物を背からおろしたような気持ちになって心から安心した。逆にアメリカに帰る時は機内でも一睡もできず、空港にいざ到着すると、緊張でピリピリしながら入国審査を待った。それが今では、アメリカの空港に降り立ってダラダラと秩序なく並ぶ人々や乱暴に投げられる荷物、ファストフードっぽい独特の匂い、横柄だけどフレンドリーな態度に接すると「ああ、帰ってきたなー」と思うから不思議である。だがそれは日本が家ではなくなったという意味でもなくて、日本の空港に降り立って独特の湿気を感じ、礼儀正しいスタッフに案内され、ゴミ一つない清潔な通路を自然発生的にできた列に並ぶあの秩序だった空気に触れると、それはそれで「ああ、帰ってきたなー」と思うのだ。 こうなってみると、私もアイデンティティーの置き場というものが曖昧になっているのかもしれない。アメリカにいる時、「ああ、私はなんて日本人なんだろう」と良く思うのだが、日本にいると「自分は随分とアメリカっぽいんだな」と考えてしまうから、どちらでもない自分がいることは確かだろう。まあでも、私は基本の人格が出来上がる時期である20代にアメリカに来たから、言語は苦労すれど、自分のアイデンティティに悩んだことはあまりない。音楽という明確な拠り所があったのも大きいと思う。でも、もっと子供の頃や思春期に海外に住んでいたらそれは悩んだだろうな、と思う。 「海外に住んで性格が変わったか」 というのはかなりよく聞かれる質問で、自分ではよく分からないので答えに悩むのだが、性格とは別に、年齢に応じた決断ごとをする時、自分が周囲の価値観に従っていることには気づいた。 例えば私は23歳でアメリカに来て、その後の20代をほぼ全てアメリカで過ごした。一般的にいえば就職して結婚をしていく重要な年齢だ。大学院生としてやってきて、少しずつ働きながらアメリカでその時期を過ごしたので、私の仕事に対する考え方はアメリカで最初に叩き込まれて、ベースが作られた。スキルがなかったら生きていけない。自分を売り込まなくちゃいけない。博士号大事。変化が当然。お金の話を厭わず「しなくちゃいけない」。自分が不当に扱われていると思ったら「言わなくちゃいけない」。こういうのは全部20代のうちにアメリカで育んだ価値観だ。そういう自分に気づいてびっくりする時もある。日本人の友達が多いから結婚観は日本のものが残された部分もあるけど、それでも例えば同性婚や権利の問題については、ほぼアメリカ的物差しで考えることになった。 逆に30代のはじめは日本で過ごしたから、そこの価値観は日本人になった。一般的にちょうど健康や家、結婚式、家族の在り方なんかが重要な課題になる年頃で、人間ドックの大切さとか、結婚式の進め方とかは完全に日本的な思考で進んだ。日本語は年齢に応じた言葉の使い方というのもたくさんあって、30代に応じた敬語や話し方というのも思考に影響したと思う。 そういう風に考えると、おそらく性格もその年齢分は住んだ文化に影響されているのだろう。場所はともかく、その年齢でしかできない体験というのは確かにあると思うからだ。自分ではあまり変化しようと思わなくても、外部からの不可抗力で変わらざるを得なくて今までと違うありようになった自分は確かにいると思う。ということはつまり、海外に住んで性格は変わったのだ。その年齢に応じた経験分だけ。 だがそう考えていくと気が遠くなってくる。私はアメリカに7年住んで、7年住んだ分の自分になった。当たり前だが1年住むのと10年住むのでは全然違うから、その時間分の自分がアメリカ人になっている。それと同時に自分がしなかった経験を思う。昔、ヨーロッパに住んでみたいと思っていたが、20代の自分がヨーロッパに住むことはもう一生できない。日本で20代を過ごす経験もできない。その分の変化を受け取る経験はもう絶対にできないのだ。ヨーロッパに限らず、アフリカでも中国でも屋久島でも、過ぎた時間分の自分が受け止める分の経験はもう一生経験できない。場所はそこにあっても時は不可逆だから、それだけはどうしようもないことなのだ。そう考えるとこの世界にはどれほど膨大な経験と価値観があるのだろうかと考えると果てしなさに眩暈がする。もしあの時選んだ決断が違うものだったら全く違う自分になっていたのだろうか。 こういう風に考えることを全て止めることはできないのだが、一つ、慰めになることを最近学んだ。結婚する前、私は「結婚したら幸せの量は変わるのだろうか」と考えていたが、そんなことはなかった。幸せの量は結婚する前と後で同量のままだ。幸せの質はもちろん違う。一人暮らしで好き勝手に飲みに行ったり遊んだり気ままに寝ていた幸せはもうないが、家で誰かとご飯を食べたり出かけたり共に猫と遊んだりするという新しい幸せに変わった。これは「私はどこにいてどんな事をしていても、感じられる幸せの量は一緒だったのかもしれない」と思うことにつながった。もちろん全てのことがこの考え通りと限らないことは明白なのだが、少なくとも今の自分の慰めにはなる。どこにいても違う幸せがあり、違う不幸せがある。別の人にもそれがある。それを思いやることが優しさなのかもしれない。

  • 好きな食べ物

    好きな食べ物

    好きな食べ物って意外と答えづらい質問ではないか。私は好きな食べ物を述べる時本当にその時好きな食べ物を答えるよりも、社会的に許容されやすい答えを優先してしまう。 例えば「キャビア」とか「トリュフ」と答えたら金がかかりそうだな〜と思われそうだし、「いちご」とか「マシュマロ」って答えたら、ある種のファクターがかかりそうだ。「なまこ」とか「くさや」と答えるのも何だか笑えるんだか笑えないんだか、という感じだ。ローカル性が高いもの、その地方であまり知られていないのもあまりよろしくない。「おっきりこみ」とか「すいとん」とか日本でならともかく、英語で話している時とかはかなり説明が必要な食べ物になってしまう。逆に日本でそれほど浸透していない料理のことを話すのも一緒だろう。この間「ドルマ」という料理を初めて食べてめちゃくちゃ美味しかったのだが、「好きな食べ物」としては挙げづらい(『シュクメルリ』『マリトッツォ』みたいに爆発的に流行る可能性もあるが)。 好きな食べ物による偏見、というところには論争もあろうが、好きな食べ物の話くらいで面倒な印象を植え付けたくないというのも素直な気持ちである。というわけで自分に嘘をつかず、社会的にも受け入れられた答えを長年探して見つけた、個人的に完璧な答えが「えび」である。 えびは良い。「えび」は桜エビから赤エビ、伊勢海老までの総称であるし、刺身で食べるところから複雑な料理の一部としてまで使われている。日常の食卓にカジュアルにのる食材でもあり、旅館のメインで出てくる食材でもある。カタカナでもひらがなでも漢字でも綴れる。ニュートラルかつ美味しい存在、それがえびである。それにえびの存在を知らない人ってそんなにいないんじゃないか。まあ、世界は広いのでなんとも言えないが、私が関わって好きな食べ物を話す人はえびの存在を知っている人が多そうだ。 しかし知っているからと言ってえびを皆が食べるわけでもない。例えば甲殻類アレルギーの人がいる。重度なものは命に関わるものだから、えびは食べられない。他には今調べてみたらユダヤ教ではえびを食べることが禁じられているらしい。なるほど、そう考えてみたらユダヤ系食品店ではえびを売っているところを見たことはなかったかもしれない。でもユダヤ教の友達はえびを食べていたので、考え方にもよるんだろう。ユダヤ教ではないが、以前友達とご飯に行った時「海洋生物の研究をしていて、えびや貝は食べない」と言われたこともあった。そういうふうに考えをベースにえびを食べない人もいるだろう。また、学生の頃ドイツに行った時、えびを食べている人はあまりいなかった気がする。特に内陸地は文化的にもえびに親しみはないのかもしれない。そういう人たちは私が「好きな食べ物はえびです」と言ったら「ああ、海方面から来たのね」と思うのだろうか。 えび一つとっても文化とは面白いものである。私は和食やイタリアンのえび料理もとても好きだが、タイ料理のえびは特に好きだ。タイ語でえびは「クン」というらしい。トムヤムクンはえびを煮て混ぜたものという意味だそうだ。トートマンクンという挽いたえびをパンに乗せて揚げた料理も美味しい。春雨サラダに入っていても美味しいし、概してタイ料理とえびの相性は大変良い気がする。タイ料理が好きな理由の一つである。 えびの良さを書いたところで苦手な食べ物についても書いておく。子供の頃は偏食で給食が憂鬱だった私だが、大人になった今は特に食べられないものはない。ゴーヤやブロッコリーは進んでは食べないが、出てきたらいただく。そういう食べ物が他にもあって、それは和菓子である。抹茶とか小豆味とか、あまり得意じゃない。でも最近、困ったことに日本だけならずアメリカでも抹茶味や小豆味が大人気なのである。タピオカティーとか飲みに行くとほぼ100%抹茶味がある。しかも日本なら和菓子が苦手と言えば終わることが、アメリカではそうはいかない。アメリカで友達に「私、日本の甘いもの大好きなんだよね!抹茶とか!」と言われた際に「私は抹茶が好きじゃない」と返すのはちょっと気まずい。なぜならそういう時彼らは言外に「日本の文化って素敵だよね」という文脈を混ぜて話してくれているからだ。優しさを無碍にするような気がして、ちょっと心が痛む。親しい友達なら、「まじか。本当に日本人?」と言って笑ってくれるのだが、初めてお茶に一緒に行く友達とかだと、もう濁してしまった方が楽かもしれない。でも嘘はつきたくない。その後さらに仲良くなって心を許した瞬間、「私抹茶嫌いなんだよね〜」と言ってしまい、「えっ、じゃああの時…!?」と思われるのも悲しいし。難しい。抹茶が好きになりたい。 好きな食べ物一つでも、その人の生きてきた人生や文化が表れるのは面白く、そしてちょっとこわいことだ。自分に正直になるところと社会通念に合わせるところのせめぎ合いである。まあでも、人と関わるってそういうものかもしれない。 おわり

  • お任せ

    お任せ

    今や日本はとても人気な旅行先だ。そうなると音楽家のみなさんが考えることは「日本に行ってコンサートしたい。そしてついでに観光もすればキャリアにもバケーションにもなる!」ということである。というわけで日本にいた頃に打診されて、日本国外から友達が来てコンサートをする、というのをやったことが何回かあるが、どれも相当大変だった。そもそもコンサートを自主企画するのはそれだけでかなり労力がかかることで、企画・お金・人集めとあらゆる心配事を操りつつ、練習して本番を迎えなくてはいけない。それが国外から、ともなるとさらに大変で、その人のプロフィールを日本語に翻訳したり、会場近くのホテルをとったり、リハ場所を余計に予約して単独で練習する時間をとったり、ツアーガイドまがいのことをしたり、そして通訳があったり、マネージャー的な手間がやたら増える。そして金銭的には、労働が増えた分の見返りはほぼない。 でも、今までのところやって後悔したことはない。信頼できるいい人たちと演奏会ができたからだと思う。そういうコンサートの一つが終わった時、同僚の一人が「いろいろありがとう。企画してくれたお礼にご飯奢るよ。」と言ってくれたので、ありがたく提案に乗ることにした。「何食べる?」と聞かれたので「なんでも!」と言ったら、「オマカセが食べてみたい。オマカセでいい?」という。オマカセを食べる?いや、店選びを任せてってこと?まあなんでもいいや、と思って、「いいよ」と言ったらわざわざ店をサーチして翌日のランチを予約してくれた。その辺りの店に入ってご飯を食べると思っていたからびっくりである。そして次の日、店に行ってみるとカウンターのお寿司屋さんでこれまたびっくりした。大丈夫か?でも、そんなに感謝してくれてたんだと思ったら嬉しい。 店に入るとメニューはなくて、お任せしかないらしい。なんということだ。ようやくその時、私は「オマカセってこれのことか!『オマカセ』という言葉が『フルコース』みたいな意味になっているんだ」と気づいた。確かに寿司屋や和食屋さんに「お任せ」というジャンルがあることは知っていたが、それが英語圏ではメニュー名として捉えられているとは知らなかった。「津波」や「過労死」に続く日本語がそのまま英語になったパターンだ。しかも今度はネガティブな意味ではなく、なかなか素敵な使い方ではないか。 ちなみに後から知ったがその店はメニューをお任せ一本化することで効率化し、悪くない値段で美味しいお寿司を提供することに定評のある店だった。「オマカセ」が流行っていることに気づいていて、インバウンドを最初から意識して成功したのかもしれない。今では東京の中心に何店舗か出している。なんでその情報を同僚が知っていたかは分からないが、今や観光客の方が日本のことをよく知っているのは珍しいことではないのだ。 情報通の同僚が見つけた店だけあってその日のお任せは大変美味しく、なんだか数ヶ月の企画の苦労が報われた気がした。ありがたい。数年前のことなのに今でも良い思い出として思い出せる、楽しかった食事だ。 そして私はアメリカに戻ってきて、「オマカセ」という言葉が当地でより進化していることに気づいた。大抵、「オマカセ」という言葉は「その店で一番高いメニュー」を指している。これは多分日本も一緒だ。「盛り合わせ」みたいな意味の時もあるらしい。「オマカセ」という言葉は一人歩きし、この間SNSで見たところ、今や「ミニカセ (minikase)」=「小規模なお任せ」という言葉すら生まれたらしい。さらに昨日インスタグラムを見ていたら、「bromakase」という言葉がニューヨークタイムズのコラムになっていた。結構面白い記事だ。アメリカで「オマカセ」がどんどん独自に進化して、かつてはステーキハウスに集っていた人々が今度は高額のお金を「bromakase」=「進化系オマカセ」に費やすようになっている、というようなところが大筋であるが、そこに対するカウンターもあって、そこではそれが「fauxmakase」=「偽オマカセ」とディスられている。お任せという言葉がこんなふうに一人歩きするなんて考えたこともなかった。でも考えてみたら日本でもそういう言葉あるし、当然の進化だよなと納得している。 ただこのことが書きたかっただけなので、この話にオチはない。オマカセが食べたいです。 おわり。

  • 猫を飼う話

    猫を飼う話

    2024年の始めから猫を飼っている。念願かなっての猫だ。10年くらい、常々猫と暮らしたいと思っていた。特にコロナ禍に入ってからはSNSで猫の日常をアップしてくれるアカウントを複数フォローし、擬似的に猫を飼っている気分を味わおうとしていた。 2023年の夏にアメリカに戻ってきて、秋くらいからは保護猫ちゃんのサイトを見るのが習慣になってしまった。毎日更新されていくサイトを見ては、いつか猫を飼う日が来るのかなと夢見る日々である。アメリカは保護犬や猫を引き取ることをすごく盛んにやる。ペットショップの生体販売はないし、ブリーダーさんからペットを買うこともあるけど引き取りが推奨されている感じだ。 だんだん寒くなってきても自分の就労ビザ手続きがなかなか進まず、覚悟していたことではあったけれど、時間を持て余すようになってしまった。ピアノは練習していたけど、仕事をしてはいけないので本番がセットできない。生徒さんもとれない。そのための営業もできない。ビザの手続き自体は順調に進んでいて、しかもある程度時間がかかるのは当たり前なのだが、これまで社会とつながったり人と知り合ったりするために自分はいかに学校や仕事頼りだったのか、ということを思い知らされた。 猫が必要だと思った。私の日常にもう少し予定を入れる必要がある。それに、もし自分がまた「72時間働けますか」みたいな状態に戻ったら、子猫を育てるなんて絶対にできないだろうと思った。幸いなことに夫は生物学をやっているだけあって(?)動物が大好きで、猫を飼うことはむしろ私より前のめりである。今しかない。 いくつか引き取り先候補を探して、近所に保護猫の譲渡を行っている猫カフェを見つけた。シェルターに突然行って引き取るよりも、まずは気楽に猫カフェに行くくらいの方がいいかもしれない。猫を飼いたいとは思うものの、まだ少々腰が引けていたので、猫カフェで猫と触れ合ってみることにした。アレルギーがあるかどうかも確認したかった。猫カフェは混んでいて、予約するのは意外と楽じゃなかった。多分猫のために受け入れ人数をかなり制限しているのだろう。いくつかアンケートがあって、その中に「Adoption(譲渡)に興味がありますか?」と言う質問があったので、「Yes」と書いた。 当日は年末で寒い日だったが、猫ちゃんたちに会えると思うと嬉しくて、張り切って向かった。入り口で名前を言うと、スタッフさんが 「保護猫譲渡に興味があるってアンケートに答えてましたね。」 と話しかけてくれた。そうです、と答えると 「今、譲渡可能な子は2匹しかいないんです。それでもいいですか?」と聞かれた。 はっきりとその日猫を引き取ろうと思っていたわけではなかったし、いいです、と答えて中に入った。スタッフさんが譲渡可能な子達の元へ案内してくれる。6ヶ月の兄弟猫ちゃんたちで、その時はお昼寝していた。とてもかわいい。撫でるとふにゃふにゃ反応する。「初めて飼うなら6ヶ月くらいの子達がちょうどいいですよ。子猫は大変です」と言われて、なるほど確かに、と思った。ただ問題が一つあった。それはこの兄弟猫ちゃんはペアでしか引き取れないということだ。二人(匹?)の絆が大変強いため、引き離すことはできないらしい。それなら二人は絶対に一緒にいてほしい。一人になるのは不安なものだ。 だが猫初心者の我々に2匹の猫を育てることなどできるのだろうか?それにお金の心配もあった。日常的にご飯やトイレを提供することはできたとしても、ペットは医療費が多くかかることもあるというし、何より私たちは今後まだいろいろなところに ―― というかもしかしたら日本や別の国に―― 引っ越す可能性だってある。そしたらそこへ猫が移動するお金もかかるだろう。猫がアメリカから日本へ行くお金を考えたことはなかったが、安くはなさそうな気がするし、検疫のためのペーパーワークなどの準備も大変そうだ。2匹になったら当然それは二倍になる。ちょっと自信がなかった。しばらく猫ちゃんたちと遊んでいたらスタッフに「どうですか?」と聞かれたので、素直にその気持ちを打ち明けると「それは仕方ない」と理解してくれて、「子猫はまたたくさん来るから大丈夫」と言ってくれた。そこで我々はその2匹の部屋から出て、もう譲渡が決まっている猫たちのゾーンで猫ちゃんとの触れ合いを楽しむことにした。走り回ったり寝たり、非常にかわいい。かわいいかわいい。どの子もかわいくて胸がいっぱいになる。その時、カフェの電話が鳴ってスタッフがとった。 「え?子猫?4匹?これから?はい、分かりました」 みたいな会話をしている。その電話を切ると、スタッフがこちらに来て…

  • 免許再取得

    免許再取得

    埼玉県の端、なかなかの田舎育ちだったので、免許は必要になるだろうということで私は車の免許を18歳でとった。やや複雑なのだが東京で高校に通い下宿していたので、自動車学校自体は調布市で通った。確か、高校も卒業間近の早春だったと思う。自転車でせっせと自動車学校に通い、2,3ヶ月かけて免許をとった。自動車学校の隣にはガストがあり、授業の間が空く時はたまにそこに行っていた。学科は一発で受かったが、運転技能は落ちて受け直した。その後、悪名高き交通の便の悪さである埼玉・鴻巣(こうのす)の免許センターにて最後の学科試験を受け、パスした(実家からも東京の下宿先からも2時間かかって本当にうんざりだった)。試験の直前には鴻巣駅前にあるウルトラなんとかという予習センターにも行き、2度と鴻巣の免許センターに早朝から来たくないという思いで受けたので、受かった時のほっとした気持ちはなんともいえないものだった。 ところがその後、引き続き東京で大学に通い、その後ニューヨークで大学院に行った私は車の運転をする機会には全く恵まれず、ペーパードライバーのまま7年ほど過ごした。だがその後ミシガンに移ることとなり、車の運転は必須になるだろうということになった。日本で免許は持っているから大丈夫だろうと軽く考えていたが、そんなのは甘い考えで、免許を取るまでにはだいぶ苦労した。私の問題はいつも技能試験なのである。学科で苦労したことはほとんどないが、おそらく空間把握能力が著しく低いのだろう。バック駐車や縦列駐車の難しさが日米で変わることはなく、アメリカでも何回か教習に通い、そしてその果てに落ちた。教習所のおじさんに励まされながら、慣れないアメリカ田舎暮らしの中でベソをかいたのは懐かしい思い出である。やっとの思いで免許をとってからも一度事故を起こしたが、しばらくすると慣れてきて、大体どこでも車で行けるようになった。 ミシガン暮らしはしばらくして終わり、日本に戻った。故郷で何回か運転したがアメリカでの運転にすっかり慣れたせいで右側通行か左側通行か混乱してしまい、またスピードの感覚もだいぶ違うので、日本の運転に慣れるのは難しかった。おまけにちゃんと日本での運転に慣れる前に東京で仕事をすることになり、そうすると運転は必要なくなり、またペーパードライバーになった。 2023年になり、またもやミシガンに引っ越すことになった。何度も行き来しておかしな人生だが、私は要領良く生きるということができない人種なんだと思う。運命を受け入れて、国際免許を取得して戻ることにした。ビザが切れると同時にアメリカでの免許も失効になってしまっていたからだ。ところが秩父警察署に行って国際免許を発行してもらおうとしたら、なんと二週間以上かかるという。出国に間に合わないではないか。鴻巣に行けば即日発行だというので、また鴻巣に行くことになった。本当に憎たらしい。いろんな人に「鴻巣は一度だけの辛抱だから」と言われてきたのだが、私は最初の更新も鴻巣に行かなければ行けなかったし、それ以降も国外居住者の前倒し免許更新で鴻巣に来ているし、合わせれば4、5回鴻巣の免許センターに行っている。鴻巣駅から15分もバスに乗ったところにあるこの古い免許センターは、周りに献血バスあれど建物内にWi-fiはない。一度埼玉県警の要望欄に書いて出したが、むげもなく断られた。そもそもここに出向かなければ国際免許が即日発行されないことも含め、全てに時代遅れの絶望が感じられるし、免許センターの内部も照明が暗く、どんよりとした諦めのようなものが漂っていると言わざるを得ない。唯一の良い点としては、国際免許は15分ほどであっという間に発行されたという点だ。即日発行と言ったのは嘘ではなかった。しかも、担当スタッフの女性は私も持っているユニクロのシャツを着ていた。親近感を覚え、微笑ましい気持ちになった。ただそれ以外、鴻巣の免許センターにいいところはない。 埼玉県民にしか面白くないと思われる鴻巣への呪詛が続いてしまった。話を戻そう。ミシガンに戻ると、私は思った以上に運転ができなくなっていた。何もかもが怖いのである。これまで全くできなかったことを上達させるのも大変だが、一度できたことができなくなっているという情けなさもなかなかのものだ。スーパー1つ行けず、過去にスイスイと運転していた自分が憎い。しばらく時間をかけて学科試験の勉強に取り組んだ。一度受かったんだし運転してたんだから大丈夫かと思いきや、全てを忘れていたからである。 ミシガンの運転免許試験は2段階に分かれる。学科試験と、実技試験だ。学科試験は近所の州オフィスに行き、申請すれば受けられる。オフィスはいくつもあり、鴻巣のようなストレスがないのは実にありがたいことである。問題は選択式で、わからない問題はスキップして後回しにできる。全部で50問あって、40問当たればパスだ。家でネットで練習問題を解き、受けに行った。アメリカでオフィスに行くのが久々でややテンパっていたので、身長と体重を聞かれた時にフィートやパウンドというアメリカ独特の計測方法がはたとわからなくなり、170センチ40キロという嘘すぎる情報を言ってしまったので、身長は計り直しとなった。その後視力検査などを済ませ、オフィスの古すぎるパソコンで試験に臨み、問題をスキップしまくって受かった。学科試験に受けると仮免がもらえる。隣に免許を持っている人がいれば運転しても良いという免許だ。仮免許を取得してから一ヶ月後から半年の間に本試験に受かれば、晴れて運転免許が取得できる。 学科試験に受かったのは嬉しかったが、技能試験があるので心は晴れなかった。私は密かに一つ目標を立てた。これまで日本でもアメリカでも、技能試験には一度も一発合格したことがない。3度目の免許試験になる今回こそ、一発で受かりたい。3度目の免許試験を一発合格と呼んでいいのかはわからないが、とにかく早く受かりたい。 しばらく練習しているうちに、運転自体の勘はだいぶ戻ってきた。高速道路も含め、運転は大丈夫だろう。問題はバック駐車と縦列駐車である。私は空間把握能力が低いので、車体のお尻がいまどこにあるかとか、車体が真っ直ぐであるかとか、そういうことを把握する力が弱い。器用な人はそういうことがわからないので、一度か二度練習すれば、できるものだと思っている。違うのだ。体に叩き込むまで練習をしない限り、駐車ができない人間もいる。私はピアノを練習するかごとく、毎日バック駐車と縦列駐車の練習を繰り返しやることにした。毎日仕事から帰ってきた瞬間、駐車練習に付き合わされた夫は疲れ切って最後の方はビールを飲みながら私の練習を見ていた。繰り返し練習へのこだわりが若干偏執的なのは自分でも気づいていたが、音楽をずっと続けてきた身とすれば当然の練習方法であり、これしか思いつかなかったので、続けた。そしてそうするうちに、私はやっとバック駐車と縦列駐車の本質のようなものを理解することができた。全ては車体が今どこの位置にあり、どれくらいハンドルを回せばどこに動くのかということを予測するということなのだ。駐車場の線内という空間のどこに車体という物体を動かしどう配置するか、それが駐車の本質なのである。自分の体は今線の外にあろうと、見るべきはすでに駐車の線の中に入った車体のお尻の部分なのである。これは文章にすると当然なのだが、体感するまでには随分と時間がかかった。最終的には自分の身体が大きくなって車体になったと考えれば少し納得がいくようになった。 そうしている内についに試験の日がやってきた。朝から非常に緊張していたがアパートメントの駐車場で最後の駐車練習をしていると、近所のおばあさんに突然挨拶され、いらなくなったであろうニット帽とサビ取りスプレーをもらったので、吉兆と捉えることにした。実技試験は近所の自動車学校のようなところで行う。私の試験官はイカつい4WDに乗った若いお兄さんだった。まずはバック駐車と縦列駐車の試験だ。立ててある三角コーンをできるだけ倒さないように駐車できれば成功である。以前試験を受けた時は派手に何本もコーンを倒し、落ちた思い出があるのだが、今回は偏執的な練習の成果が表れ、ギリギリで一本もコーンを倒さずに済んだ。この時点で私は内心では非常に自分のことを誇りに思っていたのだが、お兄さんは「当然です」というような顔でニコリともせず、続けて路上運転の試験に行くことになった。この時、18歳以上の受験者は試験中に同乗者を乗せてはいけないので、夫は寒空の下に放り出され、15分待つという拷問を受けることになった。1番近くのコーヒーショップは歩いて10分くらいかかるので、15分という時間はなんとも半端だったのである。路上試験では住宅地の中や、STOPサインで止まれるかどうかなどを審査されているのを感じた。運転しながらサラサラと何かを書いている音が聞こえたので緊張した。途中私があまりにノロノロと運転するので、もう少しスピードを出すようにも促された。高速道路も行くものだと思っていたが、一般道をぐるぐると一周した後、車は元の場所に戻った。駐車するとお兄さんは初めてニコリと笑い、「You passed. Good job.」と言ってくれた。私は心の中で快哉を叫んでいたが、おとなしく微笑み返し、お礼を言った。その後簡単に手続き方法をお兄さんは説明し、次の受験者の元へ向かっていった。夫は寒空の下立ち尽くしていたら、早めに訪れた次の受験者に試験官だと間違われたらしい。寒い寒いと言いながら車に乗り込み、私が受かったと聞くと、ついに駐車練習に付き合う必要がなくなったと喜んだ。 その日の夜はお寿司を食べた。お寿司をレストランまでピックアップしに行く最中、金曜の夕方の道は大混雑しており、交差点はポリスに溢れ「ベトナムのラッシュ」という動画を思い出させる有様だった。日本とは比べ物にはならないが、久々のお寿司は美味しく、私はついに免許に一発合格したことを非常に嬉しく思い、久々にブログを書くことを決意したのだった。 おしまい。