楽譜閑話

「楽譜通りに弾いて」と言われたことのない人はいないかもしれない。音楽を習っていたら絶対どこかで先生に言われる言葉だ。

時によってその意味はさまざまだ。音が違うのかもしれない。ペダリングの位置や指づかい、もしくはテンポや強弱記号、フレーズなど、楽譜に書かれている情報はとても多いので、それを読み取れていなかったのかもしれない。それか、楽譜に書いてあることをやろうとしていたけど違ったのかもしれない。

何であろうと、楽譜は演奏者の前で圧倒的な力を持つ。作曲家と演奏者をつなぐ、唯一の手がかりだからだ。我々は作曲家のバックグラウンドを深掘りして、「この時は〇〇に恋してたから恋愛の曲だ」とか「この曲には間違いなく〇〇の影響がある!」とやるのが大好きだが、突き詰めてみればそれは我々の推測であり、もっと言ってしまえば妄想でしかない。もちろんその中には有力な手がかりもあるが、最終的にはそれは一つの解釈に過ぎない、想像力の世界である。フィジカルな形に残っている唯一の手がかり、それが楽譜だ。

というわけでこの「楽譜絶対主義」的なものは演奏者にとって、特にここ何十年かのトレンドだと言っていいかもしれない。私も楽譜を読み込むことはとても大事だと思う。

だが、楽譜というものにそもそもどれくらい信頼性があるのか、ということはこの数年間で大きく認識が変わった。特に自分が楽譜を作る立場、楽譜編集という仕事を経験してからである。

自分で楽譜を作ってみてつくづく思ったことは、紙やデータに情報を託すということの脆弱性だ。いくら文章を書いてもすべての行間までをコントロールできないのと同じで、楽譜にすべてを託すことはできない。

「人はミスから逃れ得ない」ということも痛感した。何度も何度も見たはずの譜面、自分が沢山弾いた曲の譜面であっても間違いが起こるのは何故なんだろう。すごく小さなことが間違いのもとになる。例えばその時電話がかかってきたとか、蝿が飛んできたとか、そういう避けようのないことが原因になってしまうのだ。生きている限りは凡ミスから逃れられないのが人間だけど、それにしても難しいものだ。楽譜を作る時にはいろいろな人が関わる。今現在でもそうだから、当時はさらに色々な人が関わっていただろう。かつてのことは私が知っている基本的な部分だけに限っても、まず作曲家が自筆譜を書き、その後「写譜」というものが行われる。作曲家の楽譜が汚すぎて解読不可能だったり、各国で楽譜を発売するためにいくつも楽譜が必要だったりする場合に必要なものだ。そしてその後「彫版」というのが行われる。印刷のために、紙に書かれた楽譜を銅版に彫る作業だ。そして最終的に印刷が行われる。もちろん、作曲家の生きた時代や住んでいる場所、楽曲によって事情は変わってくるから一概には言えないが。

多くの人が関われば関わるほど、間違いが生まれやすくなるのは当然のことだ。作曲家本人だって自筆譜を書き間違えることがあるし、写譜や彫版で間違いが起こることもままある。意図的に色々なものを付け足したり消去したりということだって起きる。時間が経てば作曲家本人は死んでしまうけれど、曲は残って新たに楽譜が出版され続ける。そこで間違いがまた起きる。もしかしたら何百年も誰も気づかなかった間違いがひっそりとまだ楽譜に眠っている可能性もある。そうやって歴史の中で静かに起きた色々な小さな間違いや行き違いを思うと、果たして楽譜というのはどこまでが「正しい」のだろうという気持ちが拭いきれない。もちろん、大筋は合っていると思う。でも、例えばスラーの長さとか、ペダルの位置とか、一ミリずれただけで意味が変わってしまうような細かい部分については、どうだろう。

作曲家たちはもちろん、自分の楽譜をできる限り意図に沿ったかたちで出そうとしただろう。けれど、それは現代の「正しさ」とどこまで同じなのかということも気になる。そもそもの譜面の正確性はもちろん、当時の演奏習慣として即興や装飾を加えていたことを考えると、今とは違う楽譜の読み方、音楽との関わり方があったのではないかと思ってしまう。

作曲家はその作品において神に似て見える。彼らの意思がすべてを動かし、司ると解釈するのは一つの正しい受容の仕方なのだろう。

でも、クラシック音楽を演奏する人が、その神から正解をもらえることはない。彼らは皆もうこの世におらず、そして戻ってくることもない。それに、200年前の人々に響いた正解と今の正解は同じだろうか。

楽譜を作るということを経験してから、私は演奏者をこれまでより尊敬するようになった。舞台の上でその音楽に責任を持つ人は結局のところ、奏者なのである。弾く側だけだった時、自分は音楽を作り出すわけじゃないしいくらでも代用可能な存在だよなと思っていたが、その立場から離れたところで演奏者を見てみると、その時代を生きて、その時代の演奏ができるのは彼らしかいないのだ。だから、パフォーマーは自分をもっと誇ってほしいと思う。何百年も前に作られたものを、今でも価値あるものだとみなし、それを人と共有しようとする知性と想像力や、それを受け止めてもらえると聞き手を信頼することは、率直に尊いことだ。もちろん、作曲家の意思を尊重して自分はいなくなるような演奏を目指してもいい。でも、その人がその人であるゆえの演奏もいいものだ。例えそれが少し楽譜に書かれていることから外れても、楽譜は元々すべてを伝えられるものではないという前提で演奏を考えたっていいではないか。それに、我々が生きているのは今であって、200年前じゃない。自分という存在をもっと音楽の拠り所にしても良いのではないか。

時によって音楽は変わる。音符は変わらなくても、そこから何を読み取るのかは変わっていく。考えもしなかった方向に変わっていくものもあるのだろう。それはある意味では、とても美しいことなんじゃないだろうか。

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