無駄を生きる

就労ビザがやっと取れそうな気配の今になって思うが、この一年はつくづく無駄だった。文句を言っているわけではない。客観的な事実だ。

誰が悪いわけでもない。できることはやった。強いて言うなら、アメリカ移民局の遅々とした対応で、それにはもううんざりだが、しかし私の知っている限りはビザ申請のプロセスはできる限りの速さで進めてもらったし、夫も一生懸命頑張ってくれた。非常に感謝している。

ただ、仕事人としての自分を考えてみると、この一年間はコンサートもレッスンもできなかったし、練習も張り合いがなくて緊張感も集中力もなかった。自分のせいと言われればそれまでだが、音楽家は本番に追われて練習する生き物なので、環境要因も大きかったのは間違いない。ほとんど生産性のない一年を過ごした。日本に帰国した時も味わったアイデンティティクライシスというものをまたもや味わった。確かにこれはしんどい。仕事がなければ人とも会わないし、何も作り出していない自分というのが辛い。しかし周りが元気にみんな働いて、社会と繋がりを持っているのはいいなと思うし、そのお金でアフタヌーンティーに行ったりコスメを買ったりしているのもたいそう羨ましい。というか、肩身が狭い。私もやりたい。ちょっと高い服やデパ地下のお菓子を軽率に買うのに「自分のお金だしいいや」と思えたあの頃の心理的ハードルがない状態に戻りたい。

朝起きて何日かにいっぺん雑な掃除や洗濯をし、ピアノをチャラチャラ弾いて、スーパーまで歩いて行って、ご飯を適当に作っているだけの日々を送るうちに「社会から取り残される」という言葉の意味がわかった。猫が来てからはは多少改善されたが、だからといって一年間の私のキャリアの穴を猫は埋めてはくれない。失われた時間だ。

私は最近まで、その時間を「しかし有意義なこともあった」「意味のある一年だった」と思うことで自分を慰めていた。多少違和感はあったが、実際夫と一緒に暮らすのは楽しいし、久々のアメリカに慣れるまではそれなりに労力を費やしたから部分的には真実である。そうやって考えることはある程度自分を助けてもくれた。

でもよく考えるとやっぱりその考え方は納得いかない。ある一部分で意味がある一年だったとしても、私はやっぱり仕事がしたいし、早く取り掛かりたいし、そういう意味では死んだ一年だった。そしてそう考えるとやっぱり暗い気分に陥っていたのだが、この間久々に髭男爵のルイ53世のインタビューをいくつか読んで、かなり救われた。この人のインタビューは以前も読んだことがあり、その時もいいなあと思ったのだが、今回はまさに必要なタイミングで出会ったと思う。学生時代に6年間引きこもっていたというこの人はどのインタビューでも、「引きこもりの時間は無駄だった」と言う。でもその受容の仕方が、深く考えられていてとても好きだ。それは、人生の中には無駄な時間があること、何の役にも立たない時間をただ受け止めるということだ。それを「その時間があったから今の自分がある」とか「あの時間こそが今役に立っている」という美談にする必要はない。ただ、ゼロである自分を認める。

それはシンプルで、難しいことだ。もしかしたら美談にした方が簡単かもしれない。でもそれはしない。綺麗な文章にもならないし、勇気が出る話にもならない。ただ、そうやって過ごした自分を受け止めて許すだけだ。

私にとってこれはかなり勇気がいることだった。でも、よく考えてからそういう風に少し考えられるようになると、非常に救われた気がした。

これから自分が未来から振り返った時にこの時間やこういう風に思った自分をどう思うかはわからない。もしかして美談として振り返るのかもしれないし、やっぱり無駄だったと思うのかもしれない。でも、どっちでもいいやと思う。私はそういう一年を過ごし、今ここにいる。それをただ受け止めるための勇気を出そうとしている。それでいい。

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