異国で歳をとる

アメリカ生活の7年目を終えようとしている。23歳から29歳までをアメリカで過ごし、33歳で戻ってきたアメリカでの最初の1年がもうすぐすぎる。34年の人生の中で7年というのは長いといえば長いし、短いといえば短いだろう。「異国」とタイトルをつけたが自分にとってアメリカが異国と思う場所なのか、ということも少しずつ変わってきている気がする。夫が最近良く「海外に遊びに行きたい」と言っているが、日本から見ればアメリカは海外じゃないか。しかしずっと住んでいると最初は異国だった地が家になってきて、安心もするが刺激もない土地になってきているという気持ちはわかる気がする。なにしろ、私もアメリカの空港に降り立つと安心するようになったのだ。これは不思議な気持ちである。留学したての頃は日本に帰ると、大きな荷物を背からおろしたような気持ちになって心から安心した。逆にアメリカに帰る時は機内でも一睡もできず、空港にいざ到着すると、緊張でピリピリしながら入国審査を待った。それが今では、アメリカの空港に降り立ってダラダラと秩序なく並ぶ人々や乱暴に投げられる荷物、ファストフードっぽい独特の匂い、横柄だけどフレンドリーな態度に接すると「ああ、帰ってきたなー」と思うから不思議である。だがそれは日本が家ではなくなったという意味でもなくて、日本の空港に降り立って独特の湿気を感じ、礼儀正しいスタッフに案内され、ゴミ一つない清潔な通路を自然発生的にできた列に並ぶあの秩序だった空気に触れると、それはそれで「ああ、帰ってきたなー」と思うのだ。

こうなってみると、私もアイデンティティーの置き場というものが曖昧になっているのかもしれない。アメリカにいる時、「ああ、私はなんて日本人なんだろう」と良く思うのだが、日本にいると「自分は随分とアメリカっぽいんだな」と考えてしまうから、どちらでもない自分がいることは確かだろう。まあでも、私は基本の人格が出来上がる時期である20代にアメリカに来たから、言語は苦労すれど、自分のアイデンティティに悩んだことはあまりない。音楽という明確な拠り所があったのも大きいと思う。でも、もっと子供の頃や思春期に海外に住んでいたらそれは悩んだだろうな、と思う。

「海外に住んで性格が変わったか」

というのはかなりよく聞かれる質問で、自分ではよく分からないので答えに悩むのだが、性格とは別に、年齢に応じた決断ごとをする時、自分が周囲の価値観に従っていることには気づいた。

例えば私は23歳でアメリカに来て、その後の20代をほぼ全てアメリカで過ごした。一般的にいえば就職して結婚をしていく重要な年齢だ。大学院生としてやってきて、少しずつ働きながらアメリカでその時期を過ごしたので、私の仕事に対する考え方はアメリカで最初に叩き込まれて、ベースが作られた。スキルがなかったら生きていけない。自分を売り込まなくちゃいけない。博士号大事。変化が当然。お金の話を厭わず「しなくちゃいけない」。自分が不当に扱われていると思ったら「言わなくちゃいけない」。こういうのは全部20代のうちにアメリカで育んだ価値観だ。そういう自分に気づいてびっくりする時もある。日本人の友達が多いから結婚観は日本のものが残された部分もあるけど、それでも例えば同性婚や権利の問題については、ほぼアメリカ的物差しで考えることになった。

逆に30代のはじめは日本で過ごしたから、そこの価値観は日本人になった。一般的にちょうど健康や家、結婚式、家族の在り方なんかが重要な課題になる年頃で、人間ドックの大切さとか、結婚式の進め方とかは完全に日本的な思考で進んだ。日本語は年齢に応じた言葉の使い方というのもたくさんあって、30代に応じた敬語や話し方というのも思考に影響したと思う。

そういう風に考えると、おそらく性格もその年齢分は住んだ文化に影響されているのだろう。場所はともかく、その年齢でしかできない体験というのは確かにあると思うからだ。自分ではあまり変化しようと思わなくても、外部からの不可抗力で変わらざるを得なくて今までと違うありようになった自分は確かにいると思う。ということはつまり、海外に住んで性格は変わったのだ。その年齢に応じた経験分だけ。

だがそう考えていくと気が遠くなってくる。私はアメリカに7年住んで、7年住んだ分の自分になった。当たり前だが1年住むのと10年住むのでは全然違うから、その時間分の自分がアメリカ人になっている。それと同時に自分がしなかった経験を思う。昔、ヨーロッパに住んでみたいと思っていたが、20代の自分がヨーロッパに住むことはもう一生できない。日本で20代を過ごす経験もできない。その分の変化を受け取る経験はもう絶対にできないのだ。ヨーロッパに限らず、アフリカでも中国でも屋久島でも、過ぎた時間分の自分が受け止める分の経験はもう一生経験できない。場所はそこにあっても時は不可逆だから、それだけはどうしようもないことなのだ。そう考えるとこの世界にはどれほど膨大な経験と価値観があるのだろうかと考えると果てしなさに眩暈がする。もしあの時選んだ決断が違うものだったら全く違う自分になっていたのだろうか。

こういう風に考えることを全て止めることはできないのだが、一つ、慰めになることを最近学んだ。結婚する前、私は「結婚したら幸せの量は変わるのだろうか」と考えていたが、そんなことはなかった。幸せの量は結婚する前と後で同量のままだ。幸せの質はもちろん違う。一人暮らしで好き勝手に飲みに行ったり遊んだり気ままに寝ていた幸せはもうないが、家で誰かとご飯を食べたり出かけたり共に猫と遊んだりするという新しい幸せに変わった。これは「私はどこにいてどんな事をしていても、感じられる幸せの量は一緒だったのかもしれない」と思うことにつながった。もちろん全てのことがこの考え通りと限らないことは明白なのだが、少なくとも今の自分の慰めにはなる。どこにいても違う幸せがあり、違う不幸せがある。別の人にもそれがある。それを思いやることが優しさなのかもしれない。

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